昨日は三菱一号館美術館でヴァロットン展。展示作品は半分かもしかしたらそれ以上の点数が版画だったが、その版画が抜群に良かった。絵画的なすごさというよりグラフィックデザイン的なすごさだが。白黒の切れ味や、手塚治虫のキャラクターみたいにかなり洗練度の高いデフォルメされた人物(群集)のイメージなど素晴らしい。タブローはものによる感じで、ナビ派的なものはやはり面白く、あるいは室内で四人がテーブルを囲む図やドレスを着た後ろ向きの女性立像など、同じテーマを何度もくりかえすし仕事なんかは面白いのだが、1920年代以降の作品群になると総じてかなり駄目な感じ。19世紀から活躍していた画家が20年代以降にずるずると弛緩するというか、やたら明るくなってクドくなってペンキ絵というか絵葉書状になっていくパターンは他の画家でも見られる傾向のように思うが、やはり両大戦間のこの時期というのは、これまでの強固な何かがくずれて、それでどうしようもない「自由」な時代になりつつあって、ということなのか。


先々週くらいから読んでたヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」を読み終わった。ちなみに「ダロウェイ夫人」は1925年出版だそうな。まあ、ヴァージニア・ウルフは完全に「20世紀の人」だろうし。で、「ダロウェイ夫人」だがこれはちょっと、最初から再読したいくらい素晴らしい。というか、形式的に過激なのでそのものすごさは読み始めてすぐにわかるのだが、ではそれでとくに何が?と言ったら、登場人物ではたぶんピーター・ウォルシュがほとんど全編にわたって素晴らしく、終盤のパーティー時のクラリッサもそうだ。なんというか「意識の流れ」というのが、流れというよりもそれこそほとんど共有されたある一つのスペース内で、それぞれの意識というか、思い、心の動き、関心の向き、嫌悪、憎しみ、感傷、過去へ引っ張られる力、といった様々な作用が、どれが誰のものかもまるで判然としないような段階で、ふくらみ混ざり合って溶け合っているかのような感じなのだ。それらを指し示そうとするにも、私がなのか彼女がなのか彼がなのか、ほとんど不明瞭に使われているようで、しかし当然のことながら、それぞれの登場人物は自分の頭のなかで孤独に自分の考えを沸き立たせているだけであり、それぞれの考え同士は混ざり合わない。個々の人物同士はそれぞれ暗闇のなかで考える。なかでもセプティマスは登場した直後から、この人きっと無事では済まないのだろうなあと思っていたら最期はやっぱり…となって、残されたレチアのことを考えると辛すぎるのだが、このセプティマスの扱いについては、本作の欠点ではないだろうか。正直今後、「ダロウェイ夫人」を読んだことを忘れてしまったとしても、かわいそうなレチアという登場人物のことは忘れられないかもしれない。


だからある意味で、やはり作品の中に一点だけ曇った部分があって、作品全体がまとう昏さのようなものになってひろがっている。それはある一人の登場人物が一方的に悲劇を背負わされたような構造をもつことに起因しているような気がする。たとえ最後に、クラリッサの意識のなかに「存在していたはずの誰か」として一瞬だけセプティマスが復活するとしても、やはり昏い。それはだからつまり「あんまりいい話じゃない」と言いたいような気持ちにもなる。しかし、それでも(それゆえ)すぐまた読みたくなるような魅力がある。