格闘技を観る(3)

技とは、ルールに対する解釈であり、批評と言っても良いかもしれない。技とはルールによって矯正された形式であると同時にルールの外殻を突き破ろうとする鋭い先端である。すぐれたプレイヤーとは、自らのプレイによって、そのルールをよく理解しそのルールをもっとも自由に解釈するちからを持っていることを自他に対して知らしめるだろうし、すぐれた観戦者はそのプレイヤーがルールとの関係する瞬間の感触、匂い、スピード、手触りを、感覚の原始層レベルで、ほぼ媒介なしのダイレクトで感じ取るのだろう。そして僕のような、観る素人にとっては、観戦している目の前で、ある拳を観たとして、それが打たれた相手にダメージを与えたかもしれないと想像することはできても、たとえばやはりある鋭く放たれたハイ・キックを観たとして、それが相手のこめかみあたりにヒットしたように見えた瞬間、いきなりその相手が気絶したように崩れ落ちてしまったとして、その理由はさっぱりわからない。その蹴りが当たったのか当たってないのか、ヒットしたとしたら、それがどれほどの効果で、どれほどの衝撃を相手に与えたのか、そういうのを想像することもできない。というか、それ以前に出来事が見えない。つまり、その技の凄さ、効果、精度というものが、まるでわからない。


それを知るためには、観ることの訓練がいるわけで、観る行為を過去との比較において重層化させる。今起きた出来事を今だけのものと思わずに、過去の記憶との組み合わせによって判断するよううながすという、ルール内における技とは、そのような働きをもつ仕掛けだとも言える。技をわかろうとする、というのは、そのルールの過去をわかろうとするということで、ルールそのものに厚みがあることを認め、結論を先延ばし判断を遅らせてその奥へ分け入ろうとすることでもある。


しかし人間はこうして、いつまでもルールの周りをうろうろと徘徊し続けるのだろうか。そのときふと、これは僕にとって、まだ観たことのない、読んだことのない、かなり面白そうなヤクザ小説、ギャング映画、ギャンブル小説、スパイアクション小説ではないかと思った。たぶんこの感触自体は既に世間にずいぶん浸透したイメージなのだけれど、それでも一度観てみれば、この単純で独自なルール。底光りするような面白さをもつ何かなのだろうと。


とにかく選手たちは貪欲に勝ちを欲しがっており、勝ちたいのは選手。観客は、選手の勝ちたいという気持ちを見物し、ルールの手触りをたしかめて、肉体というモノと、ルールという決まりが、こすれ合って摩擦し合うときの音を聴いて匂いを嗅ぎたい。感情移入であり、一心同体であり、疑似体験である。


でも観客である我々にとって、勝者と敗者はどちらも存在して当たり前で、その空間内にルールがあり、ルールと肉体とがせめぎ合うのが面白い。ことに肉体が、時折見慣れた景色を大きく飛び越えようとする瞬間があって、そういうとき、観客は深い愉悦をおぼえる。撃ち合いから、ほとんど動物的と言いたいようなスピードで相手の懐近くまで接近するときの、その瞬間だけ時間が圧縮されたかのような感じや、絶妙にタイミングを外して相手に背を向けたかと思いきやいきなり反対側から回し蹴りが繰り出されるときの驚きは、もの凄いものがある。この目の前の、原始的で野蛮な光景の前で納得せざるを得ない。


だからこれはつまり、面白いと思う人がいるのもわかる。


…ところで、そうやってそれなりに夢中で目の前の出来事を観ている自分ではあったが、当初から存在している不安感が、この期におよんでもまだ完全には消え去っていないのだ。それどころかむしろ、試合が進むにつれて緊張と不安の度合はまずます強くなるのだ。それは最初に感じていた不安の感触と若干質が異なっては来ているのだが。つまり今時点で、普通なら存在しないはずの、「身内への感情」というものが大きくなっているからだ。我が友人が、これから選手として、こんなところにノコノコと出てくるという、どちらかというと、寝ているときの夢だと思ってたのが、現実だったと感づいたときの気分に近いような感じだ。これ、まじか?ほんとうに大丈夫なのか?という根本的疑問と不安が、まったく解消できていない。


友人が出場するのは、予定からいけば、つまりこの後、もう間もなく。ということになる。