午前中のうちに、水道屋が来て、水漏れのする蛇口の中の器具を取り替えてくれて、これで台所の方はオーケー、でも洗面所の方がまだイマイチで、ついでにみてもらったら、こっちは蛇口ごと替えなければ駄目かも、とのことで、今やった応急処置の効き目がしばらくは続くけど、また漏れ出したらあらためて依頼を出した方がいい。そのとき蛇口の型番も忘れずに伝えると対応が早いかもしれない、ちなみにこのメーカーは何年か前に潰れちゃって今はもう存在しないんですけどね。でも一応、型番は言った方がいい。ひょっとすると、持ってる人が来て、そうしたらスムーズにことが運ぶから。行ったり来たり、何度もやるより、最初から言って、それで持ってる人がいれば、それですぐいける可能性があるから、と言って水道屋は帰った。そのとき、日曜日の正午前くらい。


長谷川公昭「世界ファシスト列伝」の、フランス・ファシズムの章を読む。シャルル・モーラスフランソワ・コティ、マルセル・ビュカール、フランソワ・ド・ラロック、ジャック・ドリオ、ジョゼフ・ダルナン…。そして、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル。フランスのファシスト。汚辱に満ちた者ども。末代まで、祟られる者たち。「賭けに負けた」者たち。


この時代、なかなか、今の感覚で想像するのは難しいな、と思う。というかむしろ、今、この自分が、そうではない、というのを証明することが、難しいということだ。戦前の話において、常に感じるのはそこだ。


ずいぶん前に買ってあったロシェル「ゆらめく炎」の最初だけ読む。これは素晴らしい出だし。これに「浸って」いるだけで良ければそれで良いのだけど、「賭け」をしないといけないのがね。いやいやいや、もう全部やめやめ、っていうのが。


春は野菜、夏は夏の魚、秋も野菜、冬は肉を食べて、一定価格範囲内での酒を買ってのんで、たまに安い音楽を聴いて、図書館に行ったりして、電子ガジェットや通信料を家賃光熱費も含めて毎月払って、それで、そうするくらいの感じで、ずっと行って、それが反戦っていうか、いや、反政治というか、賭けから降りる態度を示せないのかといったら、それはおそらく無理である。お前の文法、お前のそれまでの記憶を、それでは当然の権利として拒否できない。どうも、さすがにそれだけではだめだ。もうちょっと工夫しないと駄目そうだ。もうアイデアとかないのだけど、もうちょっと考えないと、もたなそう。