物語が。とか、描写が。とか、小説を読んでいてそういう風に考えることは実際あまり無い気がする。それが話の筋なのか描写なのかはそう簡単には見分けがつかないのがふつうである。描写というのは時間経過の再現なのだし、話の筋を進めるときの文字そのものが意志をもっているかのような、あのグッと何かが動く感じは物語の説明ということではない、もっと見えない何かの動きを発動させる力であろう。結局はそれらが渾然となって何か得たいの知れないもののイメージを呼び寄せてくる緒力になるのだと。


今日、川端康成伊豆の踊子」最初の30ページほど読んだのだが、今更ながらじつに不気味な小説である。何だこの主人公は?と思う。まったく迷い無し、自省的な内面がなく、この小説自体をまったく臆することなく躊躇なく非人間的なほどの威力でぐいぐいと進めていく。20歳の学生でこれは…とか、もはやそういうレベルですら無く。これらの伊豆の景色は、このような視点から切り取られる「自然の描写」によるものであるということにあらためて驚く。