川端康成「抒情歌」「禽獣」を読む。「禽獣」は、おそらく今、これより面白い小説を探してみろと言っても、見つけるのが難しいのでは?と思うくらいの突き抜け方をしていて、もう、なんかとにかくすごい。所々、声を出して笑う。非情さ、冷酷さというテーマにかぎって考えてみて、もしやこれこそ、後年になって三島とか石原とかが乗り越えようとした何かなのでは?とも思ったが、たぶんそれは言いすぎで、谷崎とかそのあたりの時代への理解が未だ浅い自分に、そのへんはよくわからないだろう。でもまあとりあえず、これは面白いわ。バカだし。


伊豆の踊子もそうだが、当時の制度下の身分差別的、女性差別的風土というのは、もはや自分には異界の出来事に思えるというか、あえてそういう観点に着目して読んだら初期の川端は今の時制ならほとんど出版できないような話ばかりとも思われるが、たとえば旅芸人というもの一般に対する世間の認識観とか、女一般に対する認識観というものの、と言いたくなるような、物乞い旅芸人村に入るべからず、とか、山中で泉の湧いている箇所を見つけた旅芸人の女たちが主人公を呼んで「女のあとでは汚いだろうと思って」とか、鮮烈なまでのことば。誤解を恐れずいえば、おそろしく瑞々しい。「禽獣」もそうだけど、川端的な登場人物は、そういうのに揺らぐことがなくて、つまり最初から他者への憐憫や同情を前提としてないのが徹底しているというだけなのだが、前提無し、というのは実際、いまでも充分に刺激的だ。おそらくその異様さ、根拠を持たぬまま目の前に居ることの、いったい何で自分を支えているのか不明な不可解さ、その不気味さによって常にアクチュアルなのだ。


たまたま昨日、また寅さんがテレビでやってて(男はつらいよ 寅次郎純情詩集)。寅さんが旅の途中、面識のある旅芸人と偶然再会して意気投合して一座の人たちを皆呼んで宴会を開くというエピソードがある。それで、翌朝になって支払いの金が無く、宿屋から無銭飲食で訴えられるという流れだが、当時1976年時点での「旅芸人」の扱われ方を見ると、もはや「旅芸人」とその者らを庇護する俺、というのがセットになって一つの約束事になっていて、こういう視点から「伊豆の踊子」を見るとほとんどノスタルジーとしてしか見なくなってしまうのだが、さすがに川端の方が、もうちょっとビシッとしているのだなと思う。


しかし「禽獣」は面白い。主人公もいいけど、女中がいいのだなあ。


「抒情歌」もいい。幽霊のところとか。文楽の「あばらかべっそん」にも、幽霊をみたという話が出てくるのだけど、明治大正時代人の語る、幽霊をみたという話は、とても素直に、ああ、そうなんだな、ほんとうに出たんだな、と思うしかないような、物静かながら確かな不思議な説得力がある。