画家の文


妻はたしか先々週から、僕は四五日前から風邪気味で、そのせいででもないかもしれないが、今年の八月は、在宅している週末の時間が多い。妻は終日寝ているかテレビを見てるか家事を片付けているか。僕は終日本を読み散らかしているか、PCの前でごちゃごちゃ書き散らしているか。


ところで小説家と画家の感覚の違い、などと一言で言ってもそう簡単に書きあらわせるものではないだろうが、それでも画家が何かについて文字で書こうとするときに感じられる、その、書くという行為の中に、画家自身の身体抵抗がともなわないことへの、あれ?こんなはずでは、といったような、軽く打たれたような感触を密かに隠しているような気配が、その文字列内にひそんでいる感じを必ず受けるような気がしないでもない。そしてその打たれた感触をとりあえず取り繕うようにして、まず自分と自分の周囲の空間に起きている出来事を一旦整理したうえで律儀に再定義し直そうとしたりもする。


絵画の形式で成立する、ある「何か」と、小説の形式で成立する、ある「何か」があって、ここでは便宜上、とりあえずそれらを一緒くたにして「空間」と呼んでおくが、やはり小説家にとっての「空間」は、今その場に生成するものと、一旦お預けにしてあるものとの見えない連動の仕掛けを何度と無く試すように成立させるものかもしれず、一方画家にとっては、あらかじめ与えられた場に自分という不透過物質を投入することではじめて成立への試みが可能になるから、どうしても自分の身体性を無意識のうちで土台にしているところがあり、だから画家が唐突に言葉を使うと、まるでハシゴを外されたかのような、前につんのめるような文章になってしまうのかもしれない。しかし、それはもちろん、それはそれで、読んでいて悪くない感じなのだ。