千駄木


The Byrds「名うてのバード兄弟(The Notorious Byrd Brothers)」では、僕はそれを聴くときはいつも、一曲目「Artificial Energy」はどうも中途半端な曲に感じてしまうというか、やや食わず嫌いな曲なので飛ばしてしまい、最後の「Space Odyssey」も、まあ最後までまともに聴かなくてもいいんじゃないかと思ってしまうところがあり、つまり最初と最後の曲以外の中身のところだけを食べるみたいな聴きかたをしてばかりいる。


比類なき完成度の、完璧なアルバム、とは全く思わない。むしろコンセプトアルバムとしては、思いつきレベルなアイデアの目立つ、無理の多いものと言っても過言ではない。しかしそんなこととは別の、独特な距離と空気の濃度を仮構して、その浮遊の元に鳴らされるフォーク、カントリーが、フランジャーやジェット、フェイザーでグジャグジャに歪まされて、そのなかでの人の声(コーラス)やギターたちの、もはやことばでは表現できないような、あの質感と手触りを、ただただ好きで仕方がない。Wasn't Born To Followがゆっくりフェード・インしてくる瞬間とか、ほんとうに何度聴いても素晴らしい。


昼過ぎから出かける。晴天。あいかわらず一月とは思えない暖かさ。歩いていても、The Byrdsのおかげで気分が明るく、こころがうきうきとする。水の流れる音が聴こえてくるだけで、Wasn't Born To Followのように聴こえてしまう。


妻が行こうというので、千駄木の古本屋に行ったのだが、店内を見たら、おぉ、ここはすごい、と思った。ここ一軒だけあれば、僕なんかであれは、しばらく生きていけると思うくらいだった。しかも今調べたら、日曜以外は23:00までやってて仕事帰りにも寄れるのだから、さらにすばらしいではないか。


デリダ「尖筆とエクリチュール」とか、つい買ってしまった。こんなの、本当に読むのか?という感じだけど、かなり昔から、これは読みたいかもしれない、と思っていて、何度か、ちょろちょろと立ち読みもしたこともあって、でも自分がこれに乗っかって行けるとは思えないかな…、と思っていたが、今日また少し読んでみて、うーん、これは、…今回、買おう。と思った。


あと田中小実昌「イザベラね」も買う。これもたまたま、田中小実昌久しぶりだなと思って、何となく手にとって少し冒頭を読んだ。

 大内先生に電話したら、ちょっとのあいだ呼出音が鳴っていて、電話に出た。これは、めずらしいことだった。大内先生は、いつも、すぐ電話にでる。
 ぼくが電話をかける相手で、もうひとり、ちりんと鳴ると、すぐ電話にでるひとがいる。このひとは小説家だが、なにか欠けている、とある新聞の人物評で書かれたことがあった。しかし、なにか欠けているから、そのひとはそのひとなのに、とぼくはおもった。欠点といえばわるいところがあることだが、このひとは、なにか、ぽっかり欠けているのだ。
 その人も、それには気がついていて、自分はこういうことでも、ふつうの人にはあることが欠けている、と書いたりしている。だけど、そのひとが、欠けている実例としてあげる出来事なんかよりも、もっとぽっかり欠けているものがあって(部分的なものなどではない。まるごとそのひとに)呼出音がちりんと鳴るか鳴らないうちに電話にでることなんかも、ぼくはそうではないかとおもう。
 ただし、電話にすぐでることが、どうして、なにか欠けているのか、と言われても、こたえられない。新聞社に電話すると、たいてい呼出音が鳴らないうちに、交換手がでる。電話がかかってきたら、すぐ受話器をとるようにしつけてる会社もあるのだろう。そんなのは、もちろん欠けているのではない。電話にすぐでるのが欠けていることではない。そんなことは、もうべつのことだ。ただ、その小説家が、ちりんと呼出音が鳴るか鳴らないうちに電話にでるのが、本人があげる欠けている実例なんかより、よっぽどぽっかり、欠けているように、ぼくはおもう。
 大内先生も、なにか欠けているひとか、なんて言ったら、わらわれるだろう。大内先生は、ガタ欠けに欠けている人だと見られているからだ。しかし、見かけのガタ欠けが、大内先生のほんとに欠けているところを、おおい隠してはいないか。でも、こんな言い方も空間的、計量的だなあ。実例としてあげる出来事なんかよりとか、もっとぽっかりとか、比較も計算もできないココロのことを、ぼくは無造作に空間語の計量器にかけちまってる。おまけに、ほんとに欠けてる、ときた。ほんと、ほんとになんて、およそ空間語とはちがうとおもってたら、もうちゃんとした空間語じゃないの。
 それはともかく・・・・・・というのも空間処理だよなあ。それはおいといてとか、それはそこにおき、ほかのところにいく。だが、実際には(ココロには)引越をして、ほかにいくようなことはできない。空間処理と言っても、実際に空間処理ができればいいが、それは、ただ、はなしのすすめかただ。空間というのも、そういう考えかた、概念で、そこに空間があるわけではなかろう。

(下線にした箇所は、実際は傍点)


ここまで、ほとんど羽交い絞めにされたような感じで、もう本棚に戻すことが出来ず、これも買わざるを得なくなる。書かれていることと書きかたが、こうまで組み合うというところに、ほとんどある意味緊張に近いような思いで、胸が高鳴る。この、傍点の使いかた…。


「それはともかく・・・・・・というのも空間処理だよなあ。」というところに、ほとんど感動。