ハッピーアワー


シアター・イメージフォーラムで「ハッピーアワー」を観る。ケーブルカーに乗った四人の女性が並ぶ最初のシーンが、まず置かれる。このシーンは素晴らしくきれい。で、その後、いきなり雨天のピクニックとなり、おそろしくぎこちない、四人の役者、としか言いようのない四人の人物のやりとりが交わされる。ご挨拶のようなこのシーンで、うわ、これか、この映画は、と思う。


いま、カメラに撮影されている、この生硬な印象の女性たちが、この後いったい、どうなってしまうのだろうか。そう思っていると、次の展開からは、唐突にも、いかがわしさ満載のワークショップに参加することになって、そこで重心にまつわるフィットネス体験に関わる姿が示され、本気なのかうわべだけなのか、もしうわべだけなのだとしたら、それはワークショップへの懐疑なのか映画で演技する事自体への懐疑なのか、そのレベルで判然としないまま、かなりあやしいエクササイズを、彼女たちは最後まで体験する。


このワークショップ過程を示すシーンが、なにしろおどろくべき長さで、その時間によって、なるほどこの映画が、これだけの尺度を必要としている理由はこれか、と一瞬思う。この調子で、ひたすら時間をかけてシーンを重ねていけば、この生硬な登場人物たちの身体が、時間の経過とともに少しずつほぐれていく過程を、まさにリアルタイムで捉えることができるのかもしれず、たしかにこのペースでこの後、五時間も続けるなら、どんな登場人物でも、意図したとおりに、どうにでもなってしまうのではないかと。


それは、浅はかな考えであった。この映画の登場人物は、そのような意味では全然、映画の登場人物的ではなかった。しかし、一回りして、結局この映画の登場人物は、見事に映画の登場人物だったのである。このことがとくに後半になって、強く印象的である。


順を追って話すべきだが、何しろ長い映画で、しかも見終わった後、猛烈に感想を喋り合いたくなる類の映画で、僕は近年稀に見るほどたくさんの話を、先ほどまで妻とわいわいやっていたので、すでにあまり丁寧に書く気力はないのですが、これは、ちょっとなかなか無いというか、大変貴重な映画だ。こういうのは、なかなか観られるものじゃない。それだけは間違いない。僕はエドワード・ヤンを感じたりもしたが、もうはるか昔に観た記憶なので、そうじゃないかもしれない。よくわからないが、なにしろとても端正な映画で、踏み外さず、声高にもならず、品よく、理知的だ。


いわば「非・迫真の演技」と呼びたくなるような、これほどまでにバストショットやアップが多様されるにもかかわらず、どこまでも感情や心理的妥協点の定まらないまま、生々しさを削ぎ落としたような、如何にも紋切り型とも言えるような、各登場人物たちの人生における、まさに誰にでも思い浮かぶような、どこかで聞いたような、ありふれているとも言えるようなエピソードが、ひたすら続き、その間思い浮かぶこととしては、ああなぜこの人たちはもっと、現実の僕らのように、その場限りの笑いやお約束のセリフで、あたかもマージャンの牌をかき回すように都度都度会話をリセットしないのかということだったり、なぜそこまで目の前の相手に手抜きをしないくせに自らの欲望には動物的と言いたいほど忠実・誠実なのかということだったりする。


でも、これは映画だからそうなので、この映画では、皆が静かにあきらめのなかにいるようにも見え、とくに緊迫したシーンになると、なにしろ笑いがとても少ないのだ。笑うシーンは、じつは多いのだが、でも笑って誤魔化すことへの潔癖な拒否が、どこかにあるのだ。しかしながら、彼女たちの異なるシーンごとに違う表情や態度、佇まいや仕草の、まさに異なるということそのものに、ふとした安堵というか、そのように進むしかないという安らかさを感じる。それも息苦しいのだが、とにかくそこにまだ行く道があるというような。


この映画の感想は、難しい。あの登場人物のうち誰がすきか?という話をしても、しょうがない気がする。というか、おそらくこの作品にかぎらず何でもそうだが、登場人物を複数にするとき、それは複数を描きたいのか、単数を多面的に描きたいのか、どちらなのかと思う。この映画でもおそらく単数的な主観の四つのビューのように見ることも可能な気がする。とくに終盤はバタバタと何もかもが動きすぎてしまう感じだが、そういうこともとくに問題ではないようにも思う。


バスの中での、嘘つきお父さんの話を聞いてる、今まで見たことのないようなジュンさんの表情、フェリーに乗るジュンさんの姿、新しい世界へ向かうジュンさんが、どことなく原節子に似ていて、感動的でした。