アオサギ


玄関を出たら穏やかな天気で、薄手のコートでもやや暑く感じるほどだ。最近うちの近くの公園脇を流れる小川の傍に、たまにアオサギがいることがあって、昨日の夜など帰宅中の妻とすれ違うくらいの距離にぽつんと佇んでいたらしく、妻がその場に立ち止まってじっと見ていたら、アオサギの方でなんとなく恥ずかしそうに、ちょっと迷惑そうに、ふっと背中を向けて数歩移動して距離を空けたらしい。今日は姿がなかった。僕はたしか先々週くらいに一度見たきりである。そのときもやはり数メートル先の小川の水上にぼーっと立っていて、そのまま近づいていくとふいに両羽根を広げて、ふわっと浮き上がって、そのままどこかへ飛んでいった。まるで昔の特撮映画の合成映像のようなぎこちなさだった。そもそも、ある程度以上にでかい鳥が飛ぶのは、よくよく見ているとけっこう不思議なもので、それなりに重量感のある鳥の胴体が、地上から何メートルかのところをすーっと移動していくのを見ていると、あんな物体がほんとうにアレだけの動作で、宙に浮かんで、飛行できるものなのだろうか、糸かなんかで吊り下げられてるんじゃないのかと、今見ている現実そのものが疑わしく感じられたりもする。アオサギはむしろ小川に足を浸けて水から生えた樹木のようにぼんやりと静止しているときのほうが、自分がアオサギだということにしっくり来ているようにも見え、飛ぶときはどうも自分自身にそぐわないことをしていると感じているようにも見える。


ちなみにそのへんでよく見かける鳩はドバトと呼ばれるが、これは元々伝書鳩とかの、人間の下で飼われていたはずの鳩が、何かのはずみではぐれたりして、浪人状態になった成れの果ての連中なのだそうだ。いわばアウトローでありゴロツキどもであるが、ワイルドな精悍さは無く、単に薄汚れてるだけの、大きな目的とか野心も無い、勤め先と家の往復だけの、ぼけっと日々満員電車に乗ってる的な、夜は新橋で飲むみたいな、そういう感じもある。まあ伝書鳩よりドバトとして生きる方が、気が楽な感じはある。でもいずれにせよアオサギやシロサギのような、ふと見たらいきなりそこに立ってた、みたいな唐突感は、ハト族には無い。ハトもスズメもムクドリヒヨドリもカラスも、とりあえず皆それなりに自分たちの立居地があるように見えるが、サギはいつも突然来た客のように、常にその場にそぐわない。


葉桜はもはや無残な姿。ヤマブキのほとんど発光するような黄色と、ハナミズキの満開で肉厚の花弁の白さ。紫陽花の葉も緑色が濃くなって、クスノキの葉の色も深みと奥行きが俄然増してきた。