恋恋風塵


音楽プレイヤーを再生しながら水泳。今日はなぜかやけに水が耳に入ってしまい、音がよく聴こえなくなるのを何度も耳に付けなおしながら泳ぐ。最近、泳ぎながら泳距離を数えるのをすっかりやめてしまった。終わって、真冬の晴天下を遠回りに散歩しながら帰宅。一日の活動量を記録するアプリが、40分泳いだ結果と50分散歩した結果を、ほとんど同じ程度の成果として評価するのは、やはり納得いかない。40分泳ぐって、相当たいへんなことだと思うのだが…。50分歩くなんて、ふつうのことだと思うのだが…。


DVDで侯孝賢の「恋恋風塵」を観る。田舎に生まれて、若いうちは苦労する。若くて色々な意味でまだ未熟な子の、いろいろあって、ただ川が流れるように何かがそうなって、という一連のこと。というだけ。ほんとうにそれはそれで、それ以上でもそれ以下でもなく、それ以外どうしようもなかったこと。まったく上手くいかないことばかりだが、色々あっても、どうにかこうして生きて、ここまで来れただけでもラッキーだったともいえるだろうし、なんだかんだ云っても、まだまだ若いのだし先は長く、これからも時間は流れていくだろうし…


しかし、若者が若いだなんて、本当のことなの?僕のようなおっさんからそう見えるだけで、彼らもほんとうはもう、その瞬間にたくさん年を取ってしまったのかもしれないな。若いというのはそういうことだったのかもしれない。かもしれないけれども、そういうのはもう、僕は忘れてしまった。。


冒頭の暗いトンネルを抜けて溢れる光と緑から圧倒的な力強さの風景、駅に入ってきて停車する電車、貼られた布に映写される夜の野外映画、台北駅、印刷工場、繁華街の街並み、ただ黙って観るしかない、というか、ただ黙って観ているだけでよい。何も考えなくてもよいし、もちろん、考えてもよい。好きにすればよい。それが、侯孝賢的な時間の流れ方、と言えばよいのか、侯孝賢的な思い出し方、と言えばよいのか…でも侯孝賢的というのは、ほとんど回想的な感じがしない。誰もが思い浮かべる共通の若き日の過去、みたいなニュアンスはない。もっと固有で特有な、その登場人物個人の、いや、その登場人物を取り囲んでいる、その一回きりの時間と空間すべての固有さこそが切り取られてつなぎ合わされているようなので、だから観ている僕にとって、ある意味それはどこまでも他人事の、ごつごつ、ざらざらとしたぶっきらぼうさをたたえたまま、淡々と目の前に流れ続ける。眼差しの質感というかリズム感。たいへん、堂々とした作品でした。台北駅はなんとなく昔の所沢駅を思い出した。完全に気のせいだが。