たそがれ


AIは、さすがにまだ実用レベルにはまだまだ程遠く、それでRPA(Robotic Process Automation:ロボットによる業務自動化)など一部では騒がれているが、これはぜんぜんAI的なものではなくて、規模や仕組みの複雑さなどいろいろあるようだが、要は単なる自動化、効率化というだけのことだ。というか、単なるPC操作の自動化で人員コスト削減というのが主な趣旨で、技術的にはまったく新しい部分もないし、そういう自動化なら手作りのプログラムで既にやってる事例も多いだろうと思われる。それはともかく、しかし今は自動化の過渡期だな、と感じることが多いのは事実で、要するに人間がやらないといけない仕事と、機械でもできる仕事の、今がちょうど中間地点で僕たちは仕事してるのかなあ、という感じで、その中間の中途半端な場所で、すごく中途半端にヒマな人も多いのかなあ、などと、ぼんやりどことも知れぬどこかが想像される。


自動化はしたけど、完全自動化ではないから、定期的にメンテナンスが必要だから、そのための要員だけは必要。仕組みだけはきっちりと理解している要員が必要。変更管理できる要員だけは必要。など、人員コストは完全にゼロにはできない。でも、たまにしか必要じゃない。だから普段は、大した仕事もなくモニター見てるだけ、みたいな人も、けっこうたくさんいるかもしれない。


面白いもので、プログラムだと「おれの作品だぜ」という気持ちは持ちやすいのはわかるが、バッチ処理とか自動化スケジューリングにも、同じような気持ちを持てるか?と言われたら、一応、持てる気はする。ピタゴラスイッチ的な装置なら、たしかに「おれの作品だぜ」と思えるだろう。なら、一日に一回、スケジューリングされてそれが勝手に動く仕組みも、そう思えるだろうか。一度仕掛けたら、それが毎日動く、その日々のログを「おれ」の仕事だと、延々と続く、まったく起伏のない平坦な日常そのものを「おれ」の成果だと思うこと。


でも、いつか飽きてきて、ただぼーっとしているだけになる。一応、毎日そこに居るのが仕事だが、基本的には、ただぼーっと一日を過ごすだけになる。ああ、たそがれだなあ、とか思いながら。


そうだった。そういう人生に憧れてたんだった。


でも、そんな環境は死ぬほど時代遅れ、と云わざるを得ない。


でも、僕は元々「時代遅れなモノ」の方が好きだったのだ。子供の頃から。最高なものよりも、ちょっと落ちる方を選ぶタイプだったのだ。


ほんとうに、嫌なガキだったのです。