もう結婚してから十七年くらい経つけれども、よく考えたら今まで一度も、たとえば一週間とか、そのくらいの時間を一人で過ごしたことが、十七年のうちで、一度もないのだ。
仕事を一週間くらい休んだことはある。そのくらいの休暇は、何度かはある。二、三日なら、もっと何度もある。
しかし、二、三日を一人で過ごしたことは、十七年で一度もない。これはもしかすると、すごいことだ。
僕のような人間が、そういう年月を普通に過ごして十七年も経つだなんて、若い頃の僕を知る人なら、驚くかもしれない。
でもそれが普通というか、それを一度も疑問に思わずに今まで来ている。今後も、おそらく疑問ではない。たしかに、不思議といえば不思議だが、今となってはむしろ、それを不思議がる自分の方が、他人めいている気がする。
そんなことをぼんやりと考えながら、目の前に並んでいる古いボトルを見ていた。隣の席はメインの皿がもう終わりそうだが、さっきからそれが、すごく気になっている。
あれは一体、何なのか。
「それは美味いんですか?」
失礼だとは思ったけれども、あえて聞いてみた。
「うーん。」
相手は答えないで、しばらく考えていた。
「美味くはないね。」
そう言ってから、黙って、目の前の皿を見下ろしていた。まだ考えてるようだった。
やがて視線をもう一度向けた。
軽く酔いの回った充血した目で、長いこと、こちらを見ていた。
そのあと、こう言った。
「不味いっていうのは、そう思うなら、じつは意外と美味いってことなんだよ。」
意味を掴みかねたので、聞き返した。
「えぇと、、どういうことです?」
聞くと、また相手は、自分の手元に視線を戻して考え始めた。
「うーん。」
しばらく黙っていて、やがてこう言った。
「一つ一つが、よくわかるから。」
よくわかるって、どういうことだろうか?味がわかるということ?だったら、不味ければ、その不味さもよくわかって、余計に不味いんじゃないのか?と思った。と思ったので、ちょっとくどいとは思ったが、続けて聞いた。
「わかると、美味いんですか?」
「うん。美味い。」
「それだと、不味さも、余計にわかるでしょう?」
相手は、また少し間を空けた。もう一口食べて、咀嚼して、ワインを口に運んだ。グラスを元の位置に置いて、そのあと答えた。
「いや、不味いっていうのは、わからないってことだから。」
「そうなんですか?あれ?でもさっき、不味いのは意外と美味いって。」
「それは、不味さがわかってくると、美味いっていう感覚に変わるの。」
「それなら、最初から最後まで不味いままなら?」
「そういうことは、たぶん、ほとんどない。」
「そうなんですか?」
「そう。それをわかってしまうと、もう美味い。」
揺ぎ無い感じの言い方をされた。そうなのか。でも何となく、納得いかない。
「でも僕は、たとえばトマトが苦手なんです。それはつまり、僕がトマトの味をわかってないということですかね?」
相手は、また少し間を空けて、しかしさっきよりはずいぶん短い間隔で、こう答えた。
「いや、それは君が、トマトを、嫌いなんでしょ?それは、あるよ。嫌いなものは、ある。でも、それを不味いとは言えないでしょ。君が、嫌いなだけでしょ。」
「なるほど、それは僕が嫌いなだけで、不味いわけではないと。わかりました。ならあなたは、嫌いな食べ物は、あるんですか?」
「ある。ありますよ。」
なんだ、そうなのか、と思った。でも、嫌いなものなんか、無さそうにも見えるが…。
「嫌いだってことは、わからないということですか?」
「うーん。」
相手はしばらく唸って、こう答えた。
「そうでもない。わからないことは無いね。でも好きなものばかりではない。」
どうも矛盾ばかりな気がするけど、でも、それを批判する立場も資格も当然自分には無い。
「美味い不味いは別にして、好き嫌いはあるってことですね。」
「いや、嫌いっていうのは、その食べ物が不味いというよりは、要するに出方だからね。」
「出方?」
「うん。出方というか、あらわれかた。」
「あー、なるほど。」
「だから、出会いは大切だね。」
「そういうことですかね。」
「まあ、でも話を戻すと、大抵のものは美味いね。どんなものでも。」
「そうですか。」
「不味いっていうのは、本来はありえないね。食べ物ならね。」
「そうですか。」
「そう思いますけどね。」
「でも、話が振り出しに戻りますけど、今召し上がっているその料理は、ことさら美味いというわけではないんですよね?」
「うーん。まあ、そうだね。」
そう言って相手は、皿の残りを口に運び、飲み干した空のグラスを置くと、サービスの人を呼ぶために、辺りへ視線をさまよわせた。
いったい、何なのか?というか、それ以前に、そもそも自分が、クソ失礼だが…。
しばらくしてから、会計して、店を出た。イヤホンして、tofubeats「WHAT YOU GOT」を聞いた。そんな季節が来たのか。
そんな季節だな、と思った。