担当者


人はものを知るとか、おぼえるとかすると、それで実に生き生きするし、その場所にいることの意味とかをはっきりと掴めて、表情も多様になるし、感情の動きも活性化するものだということを、如実に感じる。若い人は、本人の意識に関係なく、そこにいるだけでそういうのを全身で表現してしまう。そのことへの自意識はあったりなかったり人それぞれだが、その個人差より体験への反応の方がよほど大きい。だからひとまずこちらとしては、ひたすら燃料を与え続けて燃やして、火を絶やさないようにして、そうしないとせっかくの熱がすぐに逃げてしまう。燃料を投下し続けるのは正直、それ自体がけっこうこちらの労力を使うので、こんなことなら一人の方が全然楽だというのは言うまでもないのだが、それでもそれはそれで仕方のないこと。


そんな事を思いながらふと前担当者のことを思い出すと、今更ながら少しかわいそうになるというか、元々かなりよくできる子だったので、こちらは最初から最後までわりと手を抜き続けていたというか、相手の力量に甘え続けたところは大きかったなとあらためて思う。悪いことしたなあ、もうちょっと色々と手をかけてあげればよかったのじゃないか、とか、それにしても今になってそんなことを思うとは、まるで予想できなかった。なぜならその人の在職中はこちらはその人に対しては自分なりにまた別の気遣いとか、その他色々配慮も考慮もしていたつもりだったし、でもそれはそれで何事もなく流れ去っていったのような印象だったし、適度な距離感というものの功罪のどちらもあって、まあこんなもんだろうな、という良くも悪くも醒めた感覚でその人との関係をまとめていた、そのつもりだったからだ。それはそれで、事実、確かだ。しかしそれでも、足りない部分は足りなかったというか、その自覚がどこかにあったのだろう。だからもっとできることもあったはずだと、今更のように思うのだろう。そういうのは当の相手がいなくなってから、如実に後になってわかるものらしい。しかし、いまさらもう遅い。