神様


熊谷守一1880年(明治13年)生まれで、1977年(昭和52年)に亡くなる。その97年間の時間のうちに、谷崎潤一郎の生涯も、ピカソの生涯も、すっぽりとおさまってしまう。というか、近代日本がほぼそのまま入ってしまう。


岐阜の実業家の裕福な家に生まれて、九十畳もの大広間の真ん中に膳を置き毎日一人で食事していた子供時代があり、慶応大学で福沢諭吉とすれ違ったり、東京美術学校黒田清輝藤島武二の下で青木繁や山本新太郎や和田三造らと絵を勉強したり、歯が悪くて徴兵検査で丙種となるも日露戦争に行かずにすみ中学の同学年は自分ともう一人以外すべて旅順などで戦死したとか、卒業後はずっと貧乏、岐阜で「ヒヨウ」を六年やって、大正のはじめにふたたび上京して関東大震災が来て二科会に入って戦時下になって空襲で幸い家は焼けず戦後もほぼ同じように暮らす。「へたも絵のうち」は1971年の6月に日経新聞に連載された記事から本になったもの。


しかし読んでも「これが日本の近代だ」などとは、まったく思わない。そんなことは一切関係ない。どれだけ凄い歴史的人物が後から後から出てこようとも、どれだけ有名な事件や出来事が起ころうともだ。


「へたも絵のうち」は適当にページを開いてどこを読んでも素晴らしい箇所ばかり。樺太に船で行ったときの箇所。

漁港や漁場らしいものがあると、調査のために陸に上がります。へんぴなところには、アイヌ人がよくおりました。私はあごひげをはやしていてアイヌによく似ていたせいか、彼らにはひどくもてました。私の方も、アイヌはひじょうに好きでした。

彼らは漁場といっても、その日一日分自分たちと犬の食べる量がとれると、それでやめてしまいます。とった魚は砂浜に投げ出しておいて、あとはひざ小僧をかかえて一列に並んで海の方をぼんやりながめています。なにをするでもなく、みんながみんな、ただぼんやりして海の方をながめている。魚は波打ちぎわに無造作に置いたままで波にさらわれはしないかと、こちらが心配になるくらいです。

ずいぶん年をとったアイヌが二人、子舟をこいでいる情景を見たときは、ああいい風景だなとつくづく感心しました。背中をかがめて、ゆっくりゆっくり舟をこいでいる。世の中に神様というものがいるとすれば、あんな姿をしているのだな、と思って見とれたことでした。