休戦


数日前から、プリーモ・レーヴィ「休戦」を読んでいる。戦況が悪くなったドイツ軍がアウシュビッツから逃げたのが1945年の1月初頭で、ロシア軍の部隊が収容所にやって来たのが同月27日だったそうだ。その間取り残された囚人は800人で、ロシア軍の部隊が来る前に500人が寒さと飢えで死に、部隊の到着直後に治療を受けた者のうち200人が死んだ。


というか、この本の何に圧倒されているのかというと、たぶんそのときの一月の寒さであり、雪と泥のコントラストであり、荒廃、汚れ、臭気、いやいやいや、ふざけるな、そんな使い古された言葉であるものか。灰色の空、吐かれる白い息、とにかく、何しろ読んでいる自分は、そこに居るのだ。そのことの凄さ。


そこに居るとはつまり、文字通りそれだけなのである。理由も目的もなく、ただ居る。とにかく、感情が死ぬ。嬉しいや悲しいが消える。たとえば最初のほうにフルビネクというアウシュビッツで生まれた三歳の子供の話が出てくる。「彼は息を引き取るまで、人間の世界への入場を果たそうと、大人のように戦った。彼は野蛮な力によってそこから放逐されていたのだ。フルビネクには名前がなかったが、その細い腕にはやはりアウシュビッツの入れ墨が刻印されていた。フルビネクは一九四五年三月初旬に死んだ。彼は解放されたが、救済はされなかった。彼に関しては何も残っていない。彼の存在を証明するのは私のこの文章だけである。」と書かれてるのを読んだ直後は、もちろん何がしかの感情的なものが心にあらわれるが、それも読み進むうちに変わっていく。喜びもかなしみも怒りも消える。ただただ、ひたすら自分はそこに居るのだ。そして衰弱している。寒さにつつまれている。何か得体の知れない非常状態の真っ只中にいる。これはそういう経験なのだ。そう思うわけではなくて、その状態になっている。


だから、誤解をおそれず言わなければいけないのだが、この本は胸が高鳴るほど面白くて、とくにギリシャ人と行動を共にし始めるあたりから、とんでもない腕力で引きずり回されるような思いで読まされてしまっていて、そう感じている以上それはどうしようもなく、罪深さへの怯えが背中にのぼるのを感じながらも、その楽しさは、認めざるを得ないのだ。本を読むことの根源的な面白さなのか、そう言ってしまって良いものかどうか、しかしそもそも書くことで実現されるべきことって、結局こういうことでいいんじゃないだろうかとも思う。言葉とは結局、所謂歴史とかを記述するのに、じつは向いてないんじゃないかとも思う。わからない。とにかく、只自分が書かれているそこにいるというか、書かれているそれそのもの。その感覚そのものだということ。それを、ひたすら舐めるように味わっている。