マネたち


少し風のある晴天。しかし風の質感が微妙に冬のものと違う。何か特有のにおいを含み始めた。やばい、季節が変わる予兆のほんの欠片が少しずつ。敏感な人はすでに花粉を感受しているのだろうけど。


世田谷美術館の「ボストン美術館 パリジェンヌ展 時代を映す女性たち」ちょっと恥ずかしい展覧会タイトルだが、ベルトモリゾの静物画がウェブサイトに載っていて、それがなかなか良さそうだったし、ほかにもいくつかは観るに値する作品がありそうに思ったので、用賀はやや遠いけど行くことにした。こじんまりとした展示で、適当に飛ばしながら会場内をウロウロして、これくらいだと疲れないし、まあちょうどよかった。


観てよかったと思えたのは、前述のベルトモリゾ、さらさらっと描かれた静物だが、絵の具の質と色彩において、これこそお客様を完全に楽しませる出来だよと言いたくなるような、なんとも素敵な佳品。


ドガの美術館で絵を観ている婦人の図はまさに如何にもドガから演技指導された感じの登場人物二人で、ちょっと上を向いた格好が地の立ち上がりと拮抗しておそろしく緊張感のある画面を作り出している。ドガにとっての写真のインパクトをあらためて感じる。写真すなわち、出来事を一瞬で捉える力、というか一瞬で捉えるしかできない不自由さ、機械のバカさ加減というか愚鈍なテクノ性、まさにそれこそがテクノロジーなのだが、要するにちょっとピンボケしてしまう視界、完全に焦点が合わないまま、定着させてしまう横暴さ、そういう単刀直入さに対して、ドガは無関心ではいられない。それをどうにか、作品内に呼び込もうとしているような感じがする。画面に視界を捉える一瞬を、もしそれが人間でなければ、という仮定に、深くよろこびを感じているような、そのとき、なぜか同じ形態のリフレインを呼び込もうとして、それが数十年後の映画表現にも、響きあうような気配まで漂う。


ルノワールアルジェリアの娘」今更ながら、ルノワールは半透明の絵の具表現をもの凄く効果的に使う画家なのだと再認識。半透明層の積み重なりで成り立つ画面、北欧的ではなくて南イタリア的というか、革新的なふりをしてかなり古典的なものに惹かれている部分が多いというか、そういうのを感じた。少なくとも「印象派」の絵の具の扱い方ではないというか、結果的には印象派だけど、手順は保守的。マネ以前のやり方を選択している。むしろそれこそが、だからこそ、ルノワールなのか。


マネ「街の歌い手」のモデルはヴィクトリーヌ・ムーランで、マネの「オランピア」も「草上の昼食」もこのモデルである。ああ。。「オランピア」と同じ顔してはるわーと感慨深い思い。デカイ絵(縦171cm)にしてはやや高めに掛けてあって、そのせいで上の方がテカって観にくいので、絵の前をひたすらうろうろする。しかし、何という鮮烈なグレーか。グレーが鮮烈だなんて、言葉がおかしい。灰色すなわち、完全なる非・色。もっとも光を反射しないというか、光の反射にともなう感情を喚起しない、ただひたすら鎮静し沈黙するだけの非・色。絵画においてもっとも忌み嫌われ、遠ざけられ、見なかったことにされる色、それがこの作品では完全な主役として画面中央に配されている。グレー。しかしその一様さの、平面という広がりのなんたる不思議さ。この殺された抑揚に対してなぜ喰い入るように見つめてしまい視線を外せないのか、「笛吹く少年」の背景色を、そのままヴィクトリーヌ・ムーランは衣装として着ているのか。脇のギターの湾曲にあたる光、上を向いた面とそうではない面との簡潔な描き分け、両脇の扉の赤褐色、口にする果物の赤との調和、マネの絵画にあっては従来の絵画的な躍動がほぼ殺されているにもかかわらずそれは絵画としか言いようがない。