朝、レーヴィ本文読み終わり、引き続き解説部分を読み進む。しっかりした読み応えのある解説で、本文部も都度見返しつつ読む。


参ったなあという感じ。若いからしょうがない、ではすまないなあ、さすがにちょっと、今後もこのままだと困る、あらたまってお話する。体調管理しっかりね。まあ、若いというだけの理由で、何となく解るは解る。若いからだよね、という理由一点だけしかない。逆にこちらは、たぶん絶対に、そんな風に体調不安定とか、ありえない。もう若くない自分は今後も、けしてこんなコンディション不調はないだろうなあと思う。つまり低血圧でふらふらとか、眠くて眠くてしょうがないとか、とにかく身体制御がまるで出来ないみたいな、疲労や眠気の揉みくちゃにされていて、まるでコントロール不可能みたいな、そういうことには、中年はけして陥らない。この絶望的なまでの安定感、中年の磐石さとは、いったい何なのかと思う。不安定さと制御の利かなさこそが健康であり若さであり生きようとする力であって、この安定した静止性こそが老化と死の前触れに近いのだと思うけれども。


夜の飲み会を終えて、帰ってきてから、家でウェブを見ていたら、いつも見ているブログに自分の記事が言及されているのを発見。三宅さんの知り合いのFさんか、とても嬉しい、というか、この人のブログでの取り組み、視界下の在りようをどうにか捉えようとする日々の挑戦、その試行には深い共感というか、他人事ではない緊張感を感じつつ僕も読み続けてきた。成果の保証されていない未踏の領域にたいしてひるまず、自身の感覚をわかりやすい何かにすりかえてしまわず、もっともらしさに安住せず、その姿勢を維持し続ける、この人の文章からはそのような志を感じさせるし、そのようにして生成される言葉こそが、この世に潜在する無数の不安の中に在る人々を鼓舞し、活気付け、勇気をもたらし、目覚めさせる契機になりうると思う。