大正百一〇年

「白樺たちの大正」を読んでいて、大正時代って、なんだったんだろう…と複雑な思いになる。学生および文学に身をやつした同人たちの白樺派周辺がかたちづくる状況があって、かつ同時代、米価格高騰に暴動を起こす農民がおり、日比谷公園周辺に群衆となって集い阿鼻叫喚、暴動寸前の集会や会合や暴動の沸騰する状況があって、政権批判、言論の自由行使と警察・行政からの告発、発売禁止恫喝のはざまで生き延びるために必死の組織変成をなす新聞社や血気盛んな在野の出版業界があって、かつ革命前後のきわめて不安定なロシアはブラゴヴェシチェンスクにて諜報活動しつつあいまいな方針しかもたぬ軍部および国家の先行きに根本的不安をおぼえずにはおれない帝国陸軍少佐がいて、それらのおりなす交響楽のような合奏が、その時その場の重層的ゆたかさとなって、読む者に迫ってくる。「行政」や「軍」は目的をとらえきれずあいまいに彷徨い、「市民」はそのような条件下に規定されたうえで、自らの身体をもって画面にちらばる絵具のように世相を「表現」する。この上位・下位構造の重奏形式、歴史の描き方の定番的な作法の、読み手にとっては保証された面白さというのがある。その保証枠によって、面白いとも言えるし、こんなものだろうとも思うのだが、過去をモチーフにした書物のよいところは、おそろしく大量の人名と書物名が結果的にメモに残ることで、書き留めたこれらの人名が載る書物のすべてをただちに購入するわけではないにせよ、過去には未だこれほどまでに未知の領域が潜んでいるのかという驚きとともに、それらはしばらく保存されることになる。それにしても大正時代が今のご時世と、じつによく似ているように思えてならない。大正百一〇年にあたる今の世の中が、このあときれいにこの後の昭和をなぞって行かないように祈るばかりだ。