素人

ダムタイプの中心には、古橋悌二がいて、高谷史郎がいて、音楽が山中透で「S/N」以降は池田亮司、ときには工学系やプログラミング出来る人間の協力も得ながら、錚々たるメンバーで、あの作品群を作り上げてきた。これだけ凄い人たちが、ある時ある場所に集まるというのは、何とも不思議な話だと思うけど、古今東西そういう話はいくつもある。

「組織」というのは、少なくとも初期段階においては、多かれ少なかれ超強力なトップダウン体制、完全なる独裁体制によって、はじめて力を発揮できるものなのではないか。利益追求であれ、芸術制作であれ、そこは変わらないのではないか。

勿論、おそらく古橋悌二は独裁者的な人物ではないだろう。しかしここでの「独裁」とは、トップのメンバーが想定したイメージに対して、他のメンバー全員が、それを実現するにあたって妥協を許されないということ、どのような過程を経たとしても、トップのメンバーによる承認のない要素は、まったく作品に含まれないような体制が構築されていることを指す。その古橋悌二が見ているイメージが、あまりにも揺るぎ無いものであるがゆえ、あれだけの精度の作品群が実現したと。

そのことを踏まえた上で、しかしダムタイプの実際の舞台は、ほとんど一発勝負しか選択肢がないみたいな「素人芝居」でもあった。ダムタイプは学生上がりの素人集団で、あれだけ高度に洗練された作品を知ってしまうと、ダムタイプに「素人」という言葉は似合わない気がするのだが、事実としてそうだった。

「玄人」の芝居集団とはつまり、プロの舞台設計、プロの照明、プロの舞台監督によって構成されていて、そこには積み重ねられた技術と洗練があり、定められた規則があるのだろう。劇場とは舞台、照明、客席などが配備された、演劇をやるのにもっとも適した場所で、いわば演劇にもっとも最適化されたプラットフォームである。ほとんどの劇は、劇場というプラットフォームの利用を前提にして構築されるはずだ。

しかしそのような経験やノウハウとはまったく離れた場所から立ち上がってきたのがダムタイプで、だから舞台装置は移動の利便性などまったく考えない重量の構築物を、ツアー先のたびに皆で組み立てなければならなかったし、音楽も同期していると見せかけて裏で実際に「演奏」しなければならなかった。驚くべきことだが、「OR」の初日は舞台がはじまっている段階で、高谷史郎は最後のシーンで使う映像をまだダビングしていたという。

ダムタイプには、すべてが計算ずくという印象と、すべてが偶然(幸運)という印象とが、矛盾なく重なり合っている。