制作雑記


1996年の修了制作では、着彩して、淵部分をライターの炎で焼き跡を付け、ぼろぼろにしてある紙に感光乳剤を塗り、写真を焼き付けたものを6点組作品として出品した。パネルを、サテン(っぽい光沢のある安くて赤い布)で、適当な感じで包み、その上に古い宝の地図のようになった紙を貼った。今、思えば絵以外の演出に逃げ過ぎで、まあ、このときの自分の絵に対する姿勢がよく判る結果であったと思う。


(追記:写真があったのでスキャンしました。(部分)でもなんで白黒・・・笑)


(自分と比較するなんて身の程知らず。というか、まあ、相手に対して失礼なんだろうが、今年の初めにMOTアニュアルでの松井冬子氏の作品を観たとき、「うわーこの人も絵以外の部分での演出が強くて、結果的に自作に対する自信の無さが出てるなーと思った。まあ、これは意図的にそういう作風なのであろうから、お門違いな悪口になってしまうのだろうが…)


ちなみに同じ年(1996)の僕の個展では現像〜定着を繰り返したことによりぼろぼろになって、乳剤の膜が所々剥がれ落ち、焼き付けた筈のイメージは痕跡を留めぬほど崩れてしまい、おまけに支持体の紙(薄手の銀紙)までズタズタになってしまったものを、そのまま無理矢理、壁に貼り付けて展示した。これは、自分の中では結構重要な位置づけの作品。っていうかこれ以降、今に至るまで、ほぼ沈黙するんだからアレですが(笑)… 


(追記:写真があったのでスキャンしました)


2004年くらいから、今に至る制作でも、やはり支持体をぼろぼろにしたい誘惑が絶えず、存在する。この事は今、自分にとって良いことなのか、悪い事なのか、いまいちよく判っていない。


というか、これは要するに、イメージ作りに過ぎないのでは??という疑問が、絶えずある。そうではないやり方ができるか?


支持体を傷つけると、そこには「傷ついた支持体」が現れる。これ全体は、多分、既に充分、絵画らしいのである。これに、更にイメージを描き加える。というのは、通常、とてもバカらしいことなのだろう。。今、そこですごい悩んでる感じだ。


理屈はともかく、感覚的にこれ!というのが出来れば、嬉しいのだけど。。そう。感覚的な喜び感を最優先で行く!!それで構わないでしょ。・・・そうじゃないと、なんか、既に「自分本来の問題」を見失ってる気もしているしなー…。


もう何にも考えないで、嘘みたいに爽やかに、なんか描いてやろうか!?といつも思う(苦笑)