それにしても、ドガは脚フェチであるなあ。。



脚なんて、なんだかんだ言っても、実際は只のモノであり、実際目の前で見たり、手に触れれば、白けきった、寒々とした物質としての抵抗を返してくる、まさに只の脚!にすぎない。しかし、その空虚な感触や何かを充分知り尽くしていて、なおかつ、その対象を嗜好するのが脚フェチ野郎なのだ!


ドガバレリーナや裸体の女を執拗に描く。股関節が脱臼しているのかと見紛うほど不自然な開脚やあさっての方向を向いた足首や、肉屋にぶら下がってそうな、弛緩した浴女を描く。ただし、ここに、被虐/加虐的・性的・暴力的な愉悦感は感じられない。


ここにあるのは、他者のイメージに加虐する作家のエゴイズムではない。むしろ笑えるような、これらの滑稽なポーズを取る人物たちが表象された絵画が現しているのは、白けるような、厳しく凄絶な、あるいは泥沼のような、真空のような、現実であろう。


昔、高校一年のとき国分寺の場末感が猛烈なポルノ映画館に忍び込んだら、スクリーン上で苛まれている、どう見ても、まあまあな感じの主演女優が「こんなことして、一体何になるの?」というセリフを吐いてて、この台詞は、しっかり心に刻ませて頂いた。エロ映像とか、エロイメージ全般には、ほんとうに、そういう、どうしようもないところがある。いやほんと、こんな事して何になるのか?っていう…ため息。。みたいな


そういう訳で、まあ僕も、絵画制作においては、「こんな事して何になるのか?」っていう状況に恐れず突っ込みたい。それしかない。良い絵を描きたいとか、もう考えない事にする。いやそれは言いすぎで、何が良い絵か?は常々考える。しかし、それでいて、かつ!こんな事して何になるの?という内なる声と共に歩みたい。。多分、絵の面白さなんて、果てしなき、目的を欠いた、頭部を失った昆虫がもがくような、そういう始末の悪さを持っていなければ、超・残酷で厳しい現実の世界に拮抗できないのではないかと感じる。そんな事を思いつつ、ドガのあくなき探求を見つめてるのだが…。


なんか、でもまだ、僕の絵はかっこ付けてる感じで、まだまだの感じですわ。