福田和也による洲之内徹のイメージ


日本人の目玉


福田和也の文章は、すごくスリリングでぐいぐい引き込まれるので、夢中になって一気に読んでしまうような性質のものだと思う。読後感も充分で大変満腹感・満足度が高い。「日本人の目玉」で洲之内徹を論じた章「見えない洲之内、見るだけの青山」も、圧倒的な面白みに満ちている。ただ僕が、洲之内徹の著作を読んだ事がないので、実際の洲之内徹という美術評論家の書いたものが、ここに書かれているような、安易な結論や意味づけを拒むような、悪魔的な厳しさに満ちているのか?が気になる。むしろ、全然そういうイメージの著述家ではないからこそ、この批評の「冴え方」がひときわ際立つという、そういうのが福田和也のそもそもの狙いなのかもしれないので、とりあえず「気まぐれ美術館」を読み始めた。


気まぐれ美術館 (新潮文庫)


第一章で、とりあえず複雑な感じが…。「佐藤清三郎の描くイメージは実に孤独である」という表現が、結論的に出てくる。イメージが孤独である。という事態が、よく考えると理解できない。こういう表現は、今まで美術作品に言及する言葉として、数え切れないほど何度も使われてきたはずだ。僕も、高校生くらいで坂崎乙郎の本などをかなり読んでいるため、こういう考え方・書き方に馴染みがある。はっきり言えば、なんとなくわかった気になれるし、軽く感動できさえする。しかし、多分「ある画家の描くイメージが孤独である」と表現されるような状態というのは、現実的にはあり得ない。それは目の前のイメージと、それ以外の何かを、自らの脳内で混ぜ合わせたときに、初めて出てくる言葉であろう。ただ…。まあ、はっきり言うと僕は「まぼろし」を語るそのような言葉に、ある居心地の良さを感じるし、むしろ好んでいると思われる。


僕自身が書いた、数日前のドガに関する記述でも「これらの滑稽なポーズを取る人物たちが表象された絵画が現しているのは、白けるような、厳しく凄絶な、あるいは泥沼のような、真空のような、現実であろう。」と表現している。しかし、イメージが(絵画が)、「白けるような、厳しく凄絶な、あるいは泥沼のような、真空のような、現実」をあらわす事態もまた、それこそ現実的には考えにくいと言える。(では、どう書けば良いのか?わからない…絵画制作であれば、根本的病巣だ。。)


自分の中のこういう嗜好を問題点として考えなければいけない。そして、最終的には「自分はこういう嗜好で、こういう考え方をする者である」と自己認識しないといけないのだろう…


今、経験上なんとなく思っているのは、目の前の絵画は、何も表していない事がはっきりしていて、まさにただの「物」として目の前にあるのだが(だから絵を前にして金縛りのようなショックを受ける。とか、そういうのは・・・まあ、小林秀雄が近代絵画でゴッホをはじめて見たときの感じを表現してる文章なんか、すごいけど…)、イメージが立ち上がり、それに伴い、脳内に関連内容との連鎖が起こり、しかしそれは、はかない。というか、普段あまり馴染みのない位の強度で、浮かんでくるもので、だからはっきり快楽的な訳ではないけれど、それを感受するだけの時間、立ち尽くすしかないような…そんな感覚が、絵画のイメージを前にしている、もっとも幸福な状態なのかもしれない。


ただし、まあこういうのを言葉で書いて、何の意味があるのかという気もする。まあ、まだよくわからんので、とりあえず「気まぐれ美術館」を読む進める…