ポップ・ミュージックについて


複製技術が発達し、テクノロジーも飛躍的に進歩したのだから、もっともっと密室的に作りこまれた、究極の室内楽みたいなものが作られても良さそう(数百年前より今のほうが、その手のものに耳を傾ける土壌が整っている)ような気がするのに、そういう類の音楽と同等か、それ以上に、厳密に高度な再生環境を問わないような構造の音楽が前世紀以降の主流となった。のはなぜなのだろう??


などと、ふと疑問に思ったがよく分からない。…まあそれはともかく、そういう高度な再生環境を問わないような音楽というのは、考えてみるとなかなか不思議なもので、特にジャズとかロックと呼ばれる、リズムと称して一定間隔の打撃音で進行していくようなスタイルの音楽というのは、これは実に、面白い現れ方をして、人に届くものだ。


ジャズとかロックという音楽は(やや乱暴に言えば)本来、音楽ホールとか、演奏行為のための空間を必要とせず、適当な場所から不意に、俄かに立ち上がって来た何かをルーツとして持つもので、強いリズムの打撃音というのは、音楽を成り立たせている音要素ひとつひとつが、まあ乱暴な話、必ずしも全て完全に、聴衆の耳に届かなかったとしても特に大きな問題では無く、最低限のビートは供給し続けられる事で聴く者に作用し続けることが出来る。と言いたげな音楽である。


というか、ジャズやロックの本質的なフレイバーとは、完全な視聴環境を整える事で感じられるようなものではなく、雑踏や人の声の延長として聴こえて来る何かであるような、そのような属性を根底に持っていて、少なくとも雑踏や人の声との明確な違いを主張する意志とは全く無縁な何かとして香るモノかもしれない。


しかし、同時に「打撃音」という、音楽というよりは行為の結果を想像させるような何かを燃焼させて進む音楽というのは、あからさまにその向こうに人が存在している事を、いやがおうにも予感させないではおかない。(あるいは極端に無機的な振舞いから生成された音で、人の「不在」を際立たせる事で、同様の結果を得る事も可能だ)


であるから、そのような何かが聴こえて来るというのは、場合によっては、今、音楽が演奏されている事実を裏付けるのは、低音で床を震わせている四つ打ちの唸りを感じている事でしかない。という事態さえ招くであろうし、今、唐突にギターがストロークされた事だけが、音楽の始まりを告げる只一つの証明だ。という事態だって、度々おこるだろうし、リアルとしか呼びようのない、他者の存在の暴力に晒されもするのかもしれない。…けれど、もしかすると多分、それだからこそ、ジャズとかロックという音楽はあらゆる表現手段の中でも最も人と親しいのかもしれない。


(追記)・・・というか、ここで書きたいことは、要するにダンスミュージックの事だろうか?イマイチ意味不明な文章である。こういうのを晒す神経がわからん。などと他人事みたいに言ってどうするおれ。まあいいや。放置します。