美しい国へ


戦時中、軍人や兵士は尊い人々であった。予備学生も尊かった。彼らは国家の将来を背負って立つ存在そのもので、文字通りの「パブリックな存在」であった。庶民は見知らぬ他人であっても、軍人や兵士や予備学生に対して、敬意と親愛を込めて接した。好意を受け取る軍人や兵士たちも、感謝を胸に刻み、すべての人々から自分が必要とされており、待たれている事を何度も噛み締め、益々「パブリックな存在」として有益であろうと、心を新たにしたことだろう。


たぶん、このような人々によって支えられている国が、たとえば「美しい国」と呼ばれるのかも知れないと思う。それはたしかに、美しいであろうと思う。でも僕はひどく憂鬱である。かつ、憂鬱でいる自分に対する戸惑いが、無いと言ったら嘘になる。僕の足元の地面の下に、無数の死者が埋まっていて、彼らがかつて、僕らのために祈ってくれたのだという事を、実感として感じる事は、とても難しいのだけれども。


憲法がもし、改正され、自衛隊が、今以上に、「本格的に」各国に派遣される事になる日を想像してみる。他国並に、危険な地域へ駐屯し、後方支援を行い、無事帰還する隊員達と、出迎える家族の姿を想像してみる。。あるいは「殉職」された方の名前が報道され、遺族の奥さんが怒りと悲しみを湛えながらも、知的で、強さを秘めた、美しい抑揚で、「主人を誇りに思います」と語る姿を…。おそらく、それらの光景は感動的だろう。「誰かが、(全員のために)この危険な任務を為さねばならない」という状況下で、それに従事する人たちを、いつしか我われは敬意と親愛を込めて見つめるのかもしれない。もし、ある日、そのような任務に従事する人々と、たまたま道ですれ違ったときには「ご苦労様です」と心の中で呟くのかもしれない。彼らは多分、輝かしい誇りを胸に秘めた、この上なく美しい表情で、僕を見つめるのかもしれない…。


であるから、ますます生きづらくなるかもしれないので、今のうちから、なるべくウロウロと徘徊して、今この現実というものの中で、とても些細な事を糧に、喜びを紡いでいける様にして、それで辛くても正気を保つような訓練を、いっぱいしておいた方が良いのかもしれない。場合によっては「正しい態度」とかは、多分もはや、ありえ無い。