クルマと私


大型のトラックが、目の前で停車しようとしていて、僕はトラックが然るべき場所に停止してから通り抜けようと、立ち止まってしばらく車の動きを眺めていた。巨大なトラックがのろのろと動き、自らの位置を微調整しているのを見てると、なかなか面白い。運転手は、軽くアクセルを踏んだのだろうから、車はエンジンからの駆動力をドライブシャフトに受け、カクンと動く。動くと同時に、運転手はクラッチをリリースしているのだろうから、そのまま、トラックは音もなく、瞬時供給された推進力に任せ、惰性でゆっくりと移動する。ジャストな位置に来て、運転手はブレーキを踏み、かろうじて残る駆動力の息の根を完全に止めてしまう。車の中の、それぞれの機関がやるべき事を認識して、それぞれ働いている事が感じられる。


今は完全にペーパードライバーになってしまった僕だが、大昔、乗っていた車は強烈なボロ車で、この車に乗っているのは実に怖かったが、なかなか面白かった。機械というものは性能や使い勝手など千差万別だが、使っていて慣れてくると隠された部分で何が起きていてどのような事になっているのか、大体なんとなく判ってくるものである。僕のクルマはぼろくて非常にエンジンの回転数が低く、エンジンを回してあげてそっとやさしくクラッチを繋いであげたときの感じで、ご機嫌を損ねなければ、少しだけなら走ってくれる。という性格のクルマであった。


まあしかし走行中でも、常に冷暖房のスイッチを入れておいたりして、車に余計な「仕事」を定常的に与えてあげたり、信号待ちで停車中のときもクラッチを踏みながらアクセルを軽ーく踏んでおいて、エンジンを少しだけ回してあげていないと、時と場所を選ばずすぐご機嫌ナナメになり、エンジンが止まってしまう。まあ、エンジンなんて掛けなおせば掛かるので、そんなアクシデントなんかほとんど慣れたものだったが。交叉点の真ん中で、4〜5回ほどエンジン掛けなおした事もあったが、別にまったく問題ない。というかエンジンが掛からないんだから、周囲をどれだけ待たせ、苛立たせようが、助手席に乗ったヤツがいくら青ざめようが、これは仕方が無いのである。…まあ、ちゃんとメンテナンスしてあげれば良かったのだが、金もなかったし、よくわかんなかった。だから適当ーにやっていた時代である。


一車線分の坂道でエンジンがとまって、その後なかなか掛からなくて、そしたら後ろからクルマが来ちゃった事もあった。あのときは確か、自分にこんなすごい力があったのか?という勢いで、その坂道の頂上まで、ハンドルを持ったまま車を手で押した。あのとき後ろのクルマのヤツがにこりともせず、こちらを見ていたことを思い出す。あと直線を普通に運転しているときなんかも、基本的にまっすぐ走ってくれなくて、気がつくとものすごい左に寄っていて、どかん!と電柱にドアミラーをぶつけたこともあった。あのときは自分の事も、クルマの事も、本当に信じられない気持ちになった。…あと、これはクルマではなく運転手のせいだが、ガソリンスタンドで給油して出て行くとき、ぽやーんとしていた僕は、真正面に停車している原付のおじさんがいるのに、ゆっくりゆっくり、そのおじさんを原付ごと踏み潰そうとしたこともあった。そのときおじさんは「おい!いるよいるよ!」といったようなジェスチャーで、向こう側に倒れそうになる自らとバイクを必死で持ちこたえていて、僕は状況に気付き慌ててバックして、すぐ車外へ出て土下座の勢いで謝ったのだが、そんな僕に対して「キミのクルマのナンバープレート曲がったよ」と、指で指し示したまま、何事も無いかのように、あのおじさんは去って行ったのである。確かにナンバープレートは内側へ曲がっていた。…あの方のご健勝を、こころから願うばかりだ…。。


運転を結局好きになることができないまま、クルマなしの生活になってもう結構たつ。普段歩いているときの、ぼやーっと考え事したりよそ見したりしてる気楽さが、クルマに乗ってるとどうもできず、そういうのがすごい嫌であった。狭い路地から飛び出してきたら終わりだと思うと、とてもリラックスなんて出来るもんじゃないし、そういう緊張感が嫌であった。クルマで仕事してる人なんかに顕著だけど、すごい適当そうでいながら、その場でちゃんと社会性を発揮して上手い事「路上におけるやり取り」をしてるのを見ると、おおすげーとか思ってしまう。と同時に、自分とは無縁の世界だとも思う。…まあしかし、用事などを済ませて停車中のクルマに乗って、エンジンを掛ける前にすこし一息つくときの感覚などは、ちょっと忘れがたい印象がある。あの車内で包まれてる感じは、悪くなかった。