「杏(あんず)」・正岡子規など…


最近、正岡子規の事をもっと知りたいと思っていて、いくつかいろいろ読み始める準備をしている。「坂の上の雲」では、最初、正岡子規をかなり主要な登場人物だろうと思わせながら、全体から見るとかなり前半のところまでで、あっと言う間にいなくなる印象がある。関川夏央がこんな指摘をしている。

坂の上の雲」は少なからず取りとめのないところがある小説です。いわゆる文芸評論的なアクセスができない。うまいかうまくないかといえば、あまりうまくない方だといえるでしょう。小説としての完成度は低い。むしろ、あえて「文学」にならないようなやり方を選んでいる。
(「坂の上の雲」と日本人)


たしかに「坂の上の雲」の正岡子規の印象といったら、それこそあるパースペクティブを持ったかたちで描画されているイメージが突然一部剥落したかのように、小説から忽然と姿を消す感がありこのあたりもさまに「取りとめのないところがある小説」っぽいのだと思うが、ただそれだからこそ、小説中で子規が齎す印象の強さは格別である。


今、読んでる福田和也の「贅沢な読書」でも、正岡子規に関して結構面白い話が出てきた。書き写すのは大変なので、ものすごく適当な説明で申し訳ないが、中江兆民のエッセイ「一年有半」に対して、子規が批判する。というところなのだが、要するに中江兆民も、正岡子規も、どちらも死の床にあるような状況で、中江兆民は奥さんに「俺が死んだら金もないし、お前ももう年だし、他に再婚もできないかもしれないのだし、どうせなら俺と一緒に死んでしまえば?」などという会話をして、その後、杏を一緒に食べる。みたいなエッセイがあって、これを正岡子規は「その中江兆民のテキストには一点の理があるから駄目だ」と攻撃したと。そんな逸話の紹介である。というかこの章自体は夏目漱石についての章だが。

要するに、自分は理を解しているんだといって虚飾をはって、理によって自分に体裁をつけて、お互い死のうかなんていいながら、ちょっと杏かなんかを買ってくる。一読すると爽やかなんだけれども、そんなものは本当の美ではないんだと子規は云う。自分はもうどうしようもないところにある、泣いて喚いてもがいているわけです。それを本当に格好もなにもつけずに、露骨に、容赦なく書いてしまっている。
 それが子規の凄みであると同時に、「一点の理」を打破する子規の文学の完成であり、同時にこの写生文、写生のスタイル、この美をいうのが近代日本文学の源流にあるんですね。
(近代小説の空間「贅沢な読書」福田和也)


これを、「悲惨な状況に向き合う勇気」とか、「眼を逸らさない姿勢」などと人の苦労話的側面から捉えても、面白くもなんともない。そうではなくて、何を目指すべきなのか?という話なのだが、僕など、やはり最後に「杏」をすごい効果的に出してあげる事こそが、やっぱり芸術の真骨頂じゃない?っていう気持ちが、もう避けがたく、心の根底にこびり付いている感じがある。もちろん、表現の手段はやり尽くされていて、もはや「杏」の出し方の「冴え」だけで、人を感動させることなんかできない事はわかっている。でも、僕はそこをないがしろにする人がすごいモノを作れるとは到底思えなくて、むしろそこに深く屈託があるからこそ「杏」を出す事自体も批判できるのだろうと思う。


そんな思いを抱えつつ僕も「杏」を出さない人を認めないとか言う話ではなく、やっぱり共感はする。というか、やっぱり気合の入った良い仕事ならすごい尊敬の感をもつし、そういうモノに触れる事ができたらやっぱり大げさに言えば「ああ生きてて素晴らしいと思えるのはこういうときだな」くらい盛り上がることもある。…ただ、僕自身は「杏」を出すような表現を試行していくつもりだし、「杏」を出す「冴え」を全力で冴え渡らせたい気持ちもある。


まあでも、その一方で「杏」なんか出すなよ。と言う子規の文学観の「真骨頂」をもっと知りたい。という気持ちもある。やはり小説や、この本などに出てくる子規というのは、とてつもなく魅力的なので、そう思わせるのだが…。


あと、この話とまったく関係ないのだが、今日はリュックタイマンスの画集を買いました。(あとトゥウォンブリも)まあ買うときは、ここで書いていたような事をぼんやり考えながら買った。でも当然ながら、正岡子規とリュックタイマンスは、多分、超!関係ないはずだと思う。でもこういう「融合」がこころのなかで起きるのだ。たまに僕は。


あと更に関係ないが、最近昔からあった上野公園の中の野球場に「正岡子規記念球場」という看板がつけられてます。これも、すごいどうでもいい話でした。