屈む人について


まだ若かりし時代、好きな女性のタイプは?と聞かれて、受け狙いとかではなく、かなり真面目に「鎖骨と骨盤が良いひと」と答えて、笑われた(怪しまれた)ことがある。


鎖骨と骨盤は、言うまでも無く美術解剖学的人体の要となる骨格である。鎖骨は、左右の肩を胸で繋いでおり、骨盤は重力に抗い体重を左右に分配させながら上半身を支えている。このふたつの線がイコール(=)になったり不等号(><)になったりして、人体は躍動する。人体の美しさは、行き着くところ、このふたつの線が織り成しているのであり、人間の喜びも悲しみも、このふたつの線の無限の組みあわせに拠って表現することができると考えて差し支えなかろうと思われる。それは言い過ぎだと思うが。


今、そのような骨格が訴えかける有無を言わさぬ美の力、人体というものの美しさを、まざまざと見せてくれるのは、女優の宮沢りえさんであろう。はっきりさせておきたいのは、僕はずっと宮沢りえさんのファンであるという事だ。とはいえ、所謂マニア的蒐集の対象とするような思い入れではなく、純粋に、人体的(人体解剖学:骨学的)観点に基づいて、ファンなのだと思っている。


宮沢りえといっても、あの有名な写真集の事を言いたいのではない。宮沢りえが真に「美の人」へと変貌を遂げたのは、90年代後半以降のことである。某関取と婚約破棄して、なんか不安定な感じになって、激ヤセしたあたりから、宮沢りえという女優は、只者ではないオーラを放ち始めたように思う。


しばらく見かけなくなったと思ったら、突如2000年だか2001年だかに、宮沢りえがモデルとなったPARCOのグランバザールのポスターを発見したのだが、ボクは、当時パルコのエスカレータに乗っていて、そのポスターがあまりにも素晴らしいので気絶しそうになった。自分が思う「人体」の、ひとつの究極型・理想形態が、そこにはあると思われた。


宮沢りえは、「線」でできているように見える。


宮沢りえは、昔も今も、けっこう映画やテレビなどで様々に活躍されているが、今ぱっと思いつく、ひときわ美しいイメージの宮沢りえを確認できる作品といったら、黒木和雄の映画「父と暮らせば」ではなかろうか。映画の冒頭、雷を怖がって部屋の机の下にしゃがみ込む瞬間が、息を呑むほど素晴らしいので一度、ご覧頂く事をお勧めする。くれぐれも念を押しておきたいのだが、ここで素晴らしいと言っているのは、映画の1ショットとして…とか、そういう云々ではなく、その、しゃがみ込む人体の映像が素晴らしい。と云いたいのである。(まあ映画の1ショットとして素晴らしい。という事でも良いのでしょうけど…)肝心なのは、衣服に包まれた肉体の、鎖骨と骨盤の織り成す、人体のダイナミズムが素晴らしい。という事で、その事だけが云いたいのである。(しかしこの作品に限らず黒木和雄という映画監督の「美人な女性」に対する熱き思いには共感を禁じえない)


今日は、なぜ突如として、そのような事を書くかというと、数日前コンビニで見てしまった光景なのだが、一番下の棚の奥の商品を取ろうと床に張り付かんばかりの勢いで屈んでいる女性がいて、その姿を偶然、上から見下ろすような状態になり、ボクの下には、頭部・背中にかけたフォルムと腰から脚に掛けてのフォルムがぎゅっと圧縮され、妙なかたちの、ひとつの固まりのシルエットになって頑張っている女性がおりまして、その変体奇形的フォルムの鮮烈さに、めまいを覚えたからなのであった。。


その余韻覚めやらぬまま、コンビにを後にした僕は、大通りの交差点で、信号が青に変わるのを待っていたら、タクシーやらトラックやらが飛ばしていく中、ツィードっぽいスカートスーツの女性が、原チャリでものすごいスピードで走り抜けていったのだが、ヘルメットからこぼれ、はみだしている髪を強く風に靡かせ、背筋を伸ばし、脚を揃えて、原チャを駆るその鮮烈さに、またしても強烈なショックを受けてしまった!…。


すごい。というか、これは、今日の文章は総じて、要するにエロい中年の猥想ではないか??とも思うが…