来た、見た、在った!


何か語るというのは、これは本当に恐ろしいことだ。というか、なんで何か語りたいのか?何か自分の「得」にでもなるのか?語る対象を喜ばせるような何かを、与えてあげる事でも出来るのか?さあどうだろう??…なんて云う考えが脳内をぐるぐる巡る日があったりすると、そういうループは底なし沼で、こういう事を考え出して突発的にblogを止めたくなって来るような事例もあろう…。


まあ僕は基本的にそんな臆病な人なのであるが、でもいい加減もう年とって来て、そこそこ図々しさを表に出せるような、羞恥心を欠いた度胸が出てきたし、そもそも絵を描いて人に見てもらおうとするような人間なのだから、blog如きでびびっていては絶対駄目なのである。ってか、もちろん一生懸命努力してですね。命がけでやるんですが、それでもその結果何を云われてもいいじゃん。という覚悟を決めて頑張るということであろう。他人事かよ。


で、まあ一生懸命努力するって事で大変結構な訳だが、それにしても美術について語るときなどは情けない事に、どれかひとつでも「正解」したくていっぱい書きたくなるのだが、そういうのはどうなの?と自問して全部削除して、もっともっとシンプルな文章にしたいのになあ。と苦しむ。


シンプルにする事の恐怖とは、対象を捉えるのをしくじる事。「外す」事だ。そういうのってどうなの?観たまま感じたままを言葉にすればいいじゃん。美術を「美しいもの」じゃなくて「よくわからないもの」として捉えてるから、そういう考えに繋がるんじゃない??…等と、言うは易しだ。現実はそうじゃないと少なくとも僕は思う。実は、絵を描いた人は、観た人に何よりも「正解される」事を望む。誤解されると(見当はずれの事を言われると)、描いた人は嬉しくない。当然の事だ。


…と書くと、幾らなんでも寂しすぎてツマラナイ話なのだが、でも絵画でも小説でもなんでも正解があるのは、実は、本当の事なのだ。勿論作品が持つ美の可能性は作者の枠を超えた云々…。というような話があった場合、それを括弧に括っての話である。いやそれ、そもそも括弧に括ってんじゃねーよ。と言われる向きもあろうが括る。確信しているのだが括る事も必要である。だから僕はすごい冷や汗が出るのである。臆病なので、なるべく当たり障りの無い事を書きたい心も多く、そういうものを無視したい気持ちも強く、理屈はよくわからねーんだよという気持ちもあり、結果的にここは、そういう上手い事逃げ腰な、主観性の強いblogかもしれない。それはかっこ悪い事なので皆さんお笑い下さい。


まあしかし、その一方で、もし言葉が仮に「正解」してしまった場合、何が起こるか?と言ったら、正解されてしまうと、死ぬ思いをするのは、正解されてしまった人である。最悪もう仕事を出来なくなり、「正解」の周辺における事故(自己)救出活動を余儀なくされる。もしくは遭難する。であるからして、そういう言葉とか批評の持つ本来的強さを理解してる人ほど、そういうのに厳格であり読解も緻密であり、自分の作品がそれらの言説に拮抗し得るという自意識の誇りが、対話なんかでのその人の印象を「怖い」感じにする。和やかさに欠けていてあんまり話したくないタイプも多い(かもしれない…根拠なし実例なし。勝手に想像です)。しかし皆それくらいの全霊を賭けた気合で取り組んでるのが、この関わったところで金儲けにもならずたいした社会的ステータスにもならずモテる訳でもない「美術」なのであり、よしんばそういう境遇を受け入れたとしても、作品に纏わる徹底した言葉とか批評が孕む厳しさに耐えられず受け入れられないのなら、もはや「美術」を降りるしかなかろう。


「間違い」を言えば笑われ、愚弄され、軽蔑される。「正解」を言えば怒りを買い、面罵され、二度と俺の前に現われるなと言われる。美術に関わるというのは、そういうものすごいところがあるのであり、まあ厄介で、けっこう大変なのである。ちなみに僕は未だなんにも大変じゃないですが。。それは僕が未だお子様だからである。(35才だが)


でもまあ、そんな批評的「正解」なんていうのは、とてつもない天才批評家が、作家の息の根を止めてしまう時のような、あんまり日常ではお目にかかれないようなすごい瞬間の事を指していて、それは数値的正しさとしての「正解」というよりは、なんかものすごい鈍く鋭い光のような感じのもので、少なくとも僕からそういう言葉が出ることは絶対に無く、僕が確信を持って言える事は「僕はおそらく間違ってますし、誤解してると思います」という事である。こういう告白は甘えだが、でもここは仕方が無く、とりあえずそのような自身を晒すことが第一目的なのだ。…その上で、本当に良いこととは、もう徹底的に「正解」を目指して言葉を打ち込むのが、一番幸福に近いのだ。しかしそれには勇気がいるし、いろいろと準備するだけの気合もいる。でもやっぱり「言いたい」という気持ちがあるから、誰に頼まれた訳でもないのに、こうして書くのだろうが。


…美しいものを認めて、それに陶酔するとき、実は既に、大抵「間違い」が潜んでいる。作品は、美しさが乗っかるかもしれない容器のようなもので、作家と鑑賞者は、共にその容器に「美しいもの」の幻影を見る。そこになるべく同じものが見えれば、きっと双方、幸福なのだが、そういう事は滅多に無いかもしれない。あるかもしれないが、わからない。


作品とはほんとうに、映画のスクリーンのようなもので、あなたも私もとりあえず同じものを観たよね。という事で、もし何かを語るなら、まずはその事だけをなるべく素直に言うことだ。いずれにせよ、ぼくは確かにそれを観た。という事を書くのは重要だ。


「ああ。お前は確かに存在した。」(ニンゲン合格)