再現待ち


やばい二日さぼった今日は何か書かなきゃ!と思って書いてます。…って。でも書くこと無いわ(笑)。


作品は、美しさが乗っかるかもしれない容器のようなもので、作家と鑑賞者は、共にその容器に、美しいものらしきものを見るので、そこになるべく同じものが見えれば、きっと双方、幸福なのだが、そういう事は滅多に無いかもしれないし、あるかもしれないが、よくわからない。


作品があらわすものとは、作品自体の美しさでもあり、かつ、その作品が微かにまとう、関わる人々の思惑とか、生成されようとしている価値とか、歴史という物語なんかが、渾然となって放つ香りの漂いでもある。これは美術作品であれば例外なくそうで、作品を観る時、これのどちらか一方でも、無視してはいけない。


たとえば、ある作家の作品があって、それを沢山の人が、とても気に入ったとする。でも、僕には、どうもその作品に「美しいもの」を見出せないとする。でも、僕は、その作家とか、それを気に入ってる沢山の人々の事に対して、なおも「信頼」を持っているとする。(打算的理由があって信頼を捨てられないとか、そういう話ではなく、信頼している。もしその信頼を捨ててしまったら、僕自身を裏切る事にすら結びつくかもしれないという)


だから、その作品に対して、何度でも「美しいもの」を見出だそうと試みたりする。そのまま、月日がたって、年月を掛けて、自分が少しずつ変わっていくことも考慮したり、もしくは信頼している筈の何かも、年月によって少しずつ様相を変えていく(それはやはり自分自身の変化に起因するのかもしれないが)ことも、考慮して。


…で、何年もたったとする。…で、それでもやっぱり判らないものというのは、確かにある。という事が、この年になると、判って来る。


そうすると、もうこれは一生判らないんだろうな。という事だけがわかる。でもそれは、喪失感とか絶望感とかがっかりした感じとは違う、もっとさばさばしたあきらめの気分で、結構気分自体は悪くない。問題が片付いた感覚。というか、まあ機械的に例えれば、不具合と言って良い現象なんだけど原因が不明(原因特定する手段が出尽くした)から、あきらめて再現待ちにして終了!とする感じ。そうやって「美しいもの」を捨てるのは爽快感があるし、そのように判らない事で、むしろ自分の輪郭が、くっきりとする感じがある。