長い板を抱えて歩く


長さ180cm、幅45cmの板を買った。部屋の隅に置いて机にするためである。


これを駅から家まで15分ほど小脇に抱えて歩いて帰る。軽いので腕への負担はそれほどでもない。前進も停止も普段歩いてるときとそれほど変わらないのだけれど、ただいつもと要領が違うのは、方向を変える動きで、なぜかというと自分の体の前後に、抱えた板が90cmずつ長く伸びているからで、この前後を含んだ「長い板を抱えた僕」の全てが方向転換を完了できないと、僕は方向転換に成功したとは言えないのだ。


自分が右に曲がろうとするだけでは自分の体全体は右に曲がれなくて、それに伴って関連する諸機関に自ら適切な処置を施さなければいけない(「自分」とはばらばらな諸機関の寄せ集まった総体だ。という認識)。という感覚は、自動車を運転する感覚に似ていて、特にモータースポーツのような、自分自身を取り囲むような機械に対して、その特性を考慮しながら適切に対処する行為に近い。


クルマというのはハイスピードで走っていてその速度を保ったまま方向転換しようとする場合、当然の事だが依然として前に進もうとする力との干渉が発生する。4つの車輪が設置していて方向転換する時、前進する力に負けて、前方向がより前に進もうとする場合(アンダーステア)と、後ろ方向がより前に進もうとする場合(オーバーステア)があるが、いずれにせよ中に乗ってる人は想定しないクルマの動きを感じ、適切かつ迅速に運転操作を行い、なるべく当初のイメージどおりの方向転換を完遂させる。(できなければコースアウトだ)


これをお読みの皆さんも試しに板を小脇に抱えて歩いてみれば判るが、そういう条件下においての方向転換は板という抵抗物が介在する分、達成までにかなりの「遅延」が発生する。その間に適切かつ迅速に自分の体に対する運転操作が行われている(後ろを振り返って周囲にぶつからないように板の突端の向きを変えるとか…)のだが、この「遅延」こそが、普段の自分のなにげない肉体の運動機能自体を、逆説的に露にしてくれる、そういう快感…というか驚き。がある。考えてみれば、そのような「遅延」に拠って何かを露にさせ、快感や驚きを得るものは多い。クルマもそうだし、テクノミュージックもそうだし…。テクノロジー(…に限らず、自然界のあらゆるもの。普段意識しないもの)がナンでもない事のように実現している処理過程を「遅延」ないし「脱臼」させるのは、こんな些細な行為からも可能なのだ。…っていうかウチについたらやっぱり腕が超・疲れていてひどく痛い。。