雪の結晶の核


大気中の微粒子を核として雪が結晶していくように、作品を生成しようと思ったらまず、雪の核である大気中の微粒子にあたるようなものを、目の前の画面上に見つけてしまう事が最優先かもしれない。それ以後は、それを核にして「絵を描く行為」を繰り返し、結晶させていく事で絵画になってしまうかもしれない。


それぞれの作者が、それぞれ大気中の微粒子を見つけ、それを起点に指定して、そこから作品を展開し続けていく。その展開の過程を、鑑賞者は鑑賞するのだが、鑑賞者は展開の過程に興味があっても、多分もともと起点となった大気中の微粒子がどんな粒子だったのか?について、それほど興味がない。それを重要視する人もいるが、それはあくまでもきっかけに過ぎないから。


野田哲也展「日記」という展覧会を観たのだが、これらの作品というのが、一点一点それぞれ「うはー」と声が出るほど無茶苦茶かっこいい。すげーかっこいいのである。野田哲也氏の作品は昔から色んな場所で何度も観てるが、それでも改めて観て、やっぱ超・かっこいい!と言わざるを得ない。カッコいいイメージ好きな人は上野芸大美術館でどうぞ。


…という事で観ながらうっとりしていながらも、しかしこれらの作品が生成していく元になった、大気中の微粒子にあたるもの「核」が何なのか?が気になっていた。作品のテーマは「日記」であり、ゆっくりと流れて来た時間の中で、家族や周囲を取り巻く環境が何の衒いもなく確かな技術と感覚で美しく定着され続けてきて今、ここに結集しているのだが、しかしそれって本当だろうか?という軽い引っかかり。家族とかそれに纏わる物語と、これらの作品から受ける絵画的な感覚との乖離を、どうしても感じてしまう。


勿論、前述したように、もともと起点となった大気中の微粒子がどんな粒子だったのか?については絵画の質を決定する要素ではない。問題はあくまでも結晶していく過程ではある。とにかくカットされてきたイメージの、画面上での定着され方がハンパなくカッコよくて、…版画とか写真って、上手く言えないが、最終的には仕上がりの瞬間を自分の手元から手放してしまう訳で、その手放して自然の摂理に従った結果として現れたものが作品であるという、そういう距離感が作者にとっても鑑賞者にとっても、ものすごく気持ち良いのだと思うし、これらの作品もその意味で完璧といって良い結果が陳列されていて、もうそれで全く問題ないという事なのだが、…とはいえ、モティーフとされているイメージが、あくまでも作品を生成するためだけに召還されているように、見えないことも無いと思った。…ただ、なんというか、これは僕の少し性格の悪さが、そう感じさせてる所もあるとは思うが、だってこれではやはり、余りにもカッコよすぎる。という感じだからだろう。もう一歩行って、やり過ぎてしまった(取り返しの付かない失敗の)感じが、全くないから。