祝祭の日々


大昔、朝からパチンコ屋に行き、パチンコを一日中やってる時代があった。10時の開店と同時に店に入って、まだガランと閑散とした店内で誰も居ないシマのひとつに腰をおろし、一服しつつ玉を打ち出しはじめ、玉がカタカタと盤面を流れていく音を聴きながら、昨日も今日も明日も同じそれが果てしなく繰り返されることをぼんやりと思ったりする午前中。


正午前後にはカウンターで「食事中札」をもらって、近くで昼食をとりつつ午後の展開を予想し、また戻ってきて午後の部を打ち込み、早ければ夕方6時ごろ、遅ければ閉店まで打ち切る。という毎日。出ようが出まいが決められただけ打ち切る。一日2500回以上デジタルを回すようにする。


毎日通うので、そのうち他の常連の人たちともそれなりに仲良くなったりして、はっきり言って皆、実に愚かな感じの人々で別に仲良くなりたくも無い感じだったが、しかしまあ皆、ある意味素敵な人々であった。


別に人生とかはアレでも全く問題ないのだろうと思う。アレ以上に幸せになるなんて、相当大変なことだろう。ああやれやれ。僕だけがアホなのだ。生きるのはほんと大して面白くない。パチンコより面白いことを何か一つでも見つけられたら、それだけでかなりの収穫である。一生パチンコしながら人生を終われたら本当にまったく素敵なことなんじゃないの?なんて思う。…金が問題だけど。(って何だこの文。アホか俺は)…当時、常連の人からお兄さん麻雀はやらないの?なんて言われてやりませんやりません言って断ったりしてたのだが、今思い返せば、もっと一緒に遊んだりすれば良かったかなあ?とも思うが、まあそれは今だから思うことだろうけど。実際やったらもう、ケツの毛まで抜かれて血の詰まった只の袋みたいにされたかもしれんけど(大げさ)


まあでも実際、僕はずっと孤独であった。なんだかんだ言って、そりゃそうだ。なんでわざわざパチンコ屋行って「社交」しなきゃいけないの?っていう話だ。。当時は玉がスタートチャッカーに入って、デジタルが回って、外れたり当たったりした経過を、全部ノートに書いていた。頭の中でその回数を数えて、1時間後とか2時間後にあたると、当たるまでに要した回転数と投資金額をメモする。そういうのを何日も何日も積み重ねていく。当時はまだパソコンとかも普及していなかったので、こういうのは手書きでやっていた。モノクロ液晶の電子手帳なんかがまだ斬新な感じだった。


こういうのをずっと記録していって、それで一日の戦いが終わると、勝とうが負けようが、その後喫茶店に行って、コーヒーを飲みながらノートを広げて戦歴を眺め、起こった事を反芻するのが、かすかに楽しかった。それで、その後古本屋とかに行って、本を買ったりCDを買ったりして家に帰るという…そういうのが一年以上続いた。小額ながら毎日なんとか稼いでいたので、それがずっと続いたのだ。その後、その店が閉店して、別の店に行ったりしたらまあ、そうそう上手くはいかず、なんだかんだでいろいろ崩れ始めて、結構金がやばくなって、それで、そういう生活が終わった。


…本当にあの時期には何も得ず、只流れていく事の、果ての無い引き伸ばしの感覚だけ…ひたすら無為に時間の積み重なっていく感覚の記憶だけが残った。単なる退屈な日当たりの良い幸福だけが、ひたすら堆積していくような、ああいう毎日の感触…あのゆっくりと流れていく日々の切ない空しさが今は懐かしい。


…その後1〜2年くらいは、所謂「パチンコ依存症」からの回復までに、結構苦しんだりしたが…ちなみに今は、パチンコなんて全くやらなくなった。マジでパチンコなんてやって何が楽しいのかさっぱり判らないという…