性的なメモ


ある集団が性的嗜好とかを同じくするというので仲間意識をもつとか、なんだかんだ言ってもおまえだって好きなんだろ??みたいな馴れ合いとか、そういう妙な内輪の共有感覚を強要する意識というのがある。そういうのはおそらく、人間が繰り広げるもっとも低劣で愚かな何かと簡単に結びつく。少なくとも羞恥心とか孤独感とかの自意識を意図的に麻痺させた上で、性的嗜好に基づいて何か実行したりするのは、社会が許容する範囲内であったとしても愚劣な振る舞いだと思う。でも僕はおそらく、そういうのをあっさりと呼び寄せるような何らかの磁場に近い場所で、自分の作品を展開させようとしているフシもあるかもしれなくて、その事は決して誉められた事ではないかもしれない。


たとえば、エロティシズムとかをテーマにして、ですね。。たとえば女性の脚に執着した表現で、そういう執着を全開にして、やたら沢山そういう絵を描くとする。それはすごい個人的な趣味で個人が勝手に自足したい傾向を多分に含んでいて、そういう絵を見て他の誰が喜んでくれるか?と言ったら、同様な趣味というか性的嗜好をもつどこかの誰かも喜んでくれるかもしれないが、しかし、僕は自分ではこれでも、そういうある種の「趣味」を共有したい訳ではないつもりだ。。…というか、とりあえず僕の絵というのが誰かの目に触れて、結果的に「趣味の共有」に成功しようが、あるいは、「最低」「あほか」と顔を顰められたり下らないと無視されようが、どちらであろうがまったくどうでも良いことだ。その後からが重要なのだ。


少なくとも誰かに「こういうのって良くない?こういう感じいいよね」と共有を働きかけたくてやってる訳ではないのだが、僕の場合、絵の状態として、すごく個人的嗜好から自分の絵が始まっていることを隠さないでいる。かつ、はっきりと具象的イメージとして、対象が焦点を結ぶまでやって(描いて)しまう。。これなら大抵の人が僕の絵を観て「女だな」「脚フェチかよ」と思うだろうし、いくらなんでもこれではあまりにも自己満足的で自慰的と、少なくとも早い段階で、そういう風に受け取られてしまうのではないか?そういうのをもっと上位抽象化したところからスタートした方が良いのではないか?などと思わなくも無い。というか、そういう考えは、これまで何度も繰り返し考えてきたのだが、僕の場合、逆に、この初期衝動を見えにくいように抽出・培養したりずらしたりしてしまうと、なんというか「戦い」としてより困難になるのではないか?という予感があって、この、固有性・具象性イメージを捨てられないでいる。…だって女性の脚とかが描かれている方が、もういきなり「それだけの下らない絵」に簡単で落っこちてしまえるので、いろいろ問題が見えやすい気がするし。仮に画面から、脚とか女性とかのイメージがなくなったって、どうせ「ああ、この感じね」「この感じ良いよね!」というのは延々続いてしまうだろう。良いって言ってくれたら、それは嬉しいのだけれど、っていうかこの「良い!」というのは、大抵の絵でそう言えてしまうのだ。だったら、もっと危険度高めに判りやすくしとけば…というか、そういうの自体も内側に巻き込んでしまいたい…というか。


あなたは何らかの衝動で私に触れたいと思って、実際に触ったのでしょうけれど、そのとき貴方の頭の中に、いろいろたくさんの計算が走ったのだと思う。勿論まずいと思っていたのでしょうけど、その気持ちを押し退けたくて、今までの私との普段どおりの感じで、多少の事なら冗談交じりであれば許容される可能性が高いとか、私の性格的に、さほど怒ったりしなさそうだとか、状況を見て判断して、空気を読んで、和やかさ優先の大人の対処でやってくれそうだとか。。。まあなんとかなる、というか、なんとかしてくれなきゃ困るみたいな…今までどれだけ世話掛けてやったと思ってんだ!とか、まあ揉めても何とか対処できるレベルで済むだろう。私を納得させ、事を丸く治めることが出来るさ。とか、そういう色々な事が頭を過ぎったんだと思います。で結局、実行を自分に許したんでしょう。


私は絶対に貴方を許しませんから。もう取り返しがつかないです。貴方は覚悟しなければいけないでしょう。私は全力で、貴方にこの行為の代償を求めることになります。貴方がこの先どういう事になっても、私は自分の身を守り、自分の尊厳を取り戻す事を目的に、徹底的に貴方と闘います。


(たぶん触れるという事は、単に物理的な接触以外にも、もっとさまざまな意味を含んだ多様な何かであるはずで、…少なくとも私にとってはそういうもので、であるから体に触れるというのは相手とのそのような、意味の確認というか探りあいというか、あるいはもっと感覚同士の確かめ合いだったりとか…(涙)…そういう何かである筈なんで、だから触れるという事にもし、喜びとかがあるのだとしても、そういうところからしか在り得ないはずなんです。もちろんそういうのは、心の奥で気づかないくらいの薄さで密かにぼんやりと思っている事で、これ見よがしに口に出したりはしませんけれど、でもああいう暴力を受けて、何よりも辛いのは、自分の心の奥にある、ある思いというか、何か自分を貫いている深い芯のようなものを、恐ろしいほど軽々しく、たかを括った態度で、汚れた手で扱われたような、そういう感覚に対してなんです。私は今後、間違ってもあのようなガサツで軽率な何かに私を晒さない。それを私自身と約束しなければならない。自らの手で未来の私を復権させてみせる。それをもう一度、自分に強く言い聞かせ、自分を鼓舞して、嵐のように自分の命を守るために、私は徹底的に、闘おうと思っているんです。)


…例えば人物に興味があって、エロティシズムというか性的対象としての肉体に執着したくて…みたいな初期衝動があって、それで絵を描きはじめるとき、その感覚を、例えば画面上でフォルムを変形させる事の面白さに置き換えたりだとか、素材固有の面白さだとか、タッチや色彩が持つ豊かさとあまりにも簡単に摩り替わってしまうような事ではいけない。(まあそうならないのは難しいのだが)また、イメージを別の(本来興味が無いはずの)別のイメージと関連付けて、たとえばエロい→グロい、とか、エロい→怖い、とか、エロい→かわいいとか懐かしいとか切ないとか、そういう並列の遊びにしてしまっても、もちろんいけない。というか、それでも別に良いんだろうけど、それより、本来もっとすごい感じというのが、最初のうちはあった筈なのだ。しかしそういうのは本当に忘れやすいのだ。


ポルノとは、対象との距離感(および触れることの不可能性)が可能にしてくれる幻想の事だ。ヒューマニズムが、私と、対象との距離(および触れることの不可能性)が可能にしてくれる心の動きであるのと同じく。