今ある目の前の豊かさそれ自体に気づく事


「どかーんと音圧一発」とか、「疾風のように駆け抜ける旋律」だとか、言葉にするとつまらないが、音楽が持っているそういう極めて抽象的な、音楽固有の良さというのがある。同じように、絵画にもそういう、「めくれあがるような色彩の露呈」だとか「線それ自体の躍動」だとか「構成された諧調内を雪崩落ちていくなんとか…」だとか、まあ言葉に置き換えた場合はともかく、絵画固有の、他の手段では置き換え不可能な独自の良さというのがあり、絵画に関わる以上そこの周囲を考える事なしでは、絵画である事の面白さに辿り着くのは難しい。


しかし、たとえば音楽が、あるいは小説が、映画が、唐突にも自ら、何かを物語ろうとするような場面に出くわすことがある。そんな場合、それを語る事ができる、整然と何かを伝える事ができる、と考えているのは何か?誰か?作り手だろうか?だとすればそれほど特権的に、作品と私の間に介入できるのが作り手という存在なのだろうか?それが可能である事を、誰に確認するでもなく前提とされたとき、我々はその唐突さをどこに相談すべきか?などと戸惑いもする。…でもどこにも相談はできないので、それでたぶん、音楽や小説や映画や絵画というのは、どうやら「物語」を必要としなければならないやむなき理由があるのだろう…多かれ少なかれ結局は、作り手からのその贈り物を受取って退場せねばならないモノなのだろう…好き勝手に感じて楽しむなんていう非効率的な事は許されないのだろうと、密かに納得する。その事で音楽や小説や映画や絵画は、直ちにそれ自体の強度を弱めてしまう。人は「物語」を理解し受容するために、本来展開している沢山の現象をすべて無かったことにして、それらの大半を犠牲としなければならない。これは随分贅沢な、というか勿体無いことだ。もしそれが「料理」だったら、相当な罪悪感を感じずには要られないような振舞いの筈だ。


だから、心有る作家たちは、そのような勿体無い事に観客を陥らせない為に、今ある目の前の豊かさそれ自体に幾つも幾つも気づいてもらえるように配慮する。それが上手くいったり行かなかったり、却って逆効果になって観客を戸惑わせたりもする事もあるのだろうけど…。まあそれでもともかく、それを一番の幸いと信じて営みを続けるのだ。


しかしそもそも、まったく「物語」を含まない音楽や小説や映画や絵画は、この世に存在しない。というか、人は「物語」としてしか、音楽や小説や映画や絵画を認識できない。それが如何に抽象的な固有性に満ちた現われであったとしてもだ。であるから、むしろこれ見よがしに、そういう「物語」を目の敵にして、それを排除する事自体が目的となったような音楽や小説や映画や絵画を作ったりする作り手は、それはまた、別の罠に掛かっているのだと言える。むしろ、それを知った上で、まったく当たり前のように、普通に何かを描く事こそが大事で、そこには他者への信頼すなわち「愛」がなければいけない。だから、愛をもって、ドアを叩け。そうすれば入れてもらえるであろう。担当者の人に問い合わせてみましょう。


しかしドアというのは、いつも何らかの得体の知れないシステムであるとか、制度であるとか、ある仕掛けのようなものの入り口なのだろうか。


システム自体の説明はできない。何か不穏な怪しい、全容を把握できないような雰囲気の表出で感じさせるしかない。しかしその後所謂「担当者」みたいな人物が、そのブラックボックスの内部からひょっこり登場してきて、物語はその担当者(および担当者の背後に広がっている巨大で不穏な気配)とのやり取りを主軸として展開する事になると。この場合、結局システムの怪しさや不穏さを「担当者」の人格的イメージが代替的に背負う事で、その人物と機関との関係なんかで、ある種の吸引力とかわかり易さを伴いながら物語が展開されていくと…。