彼方について


今あるこの現実の、この空間の中で、もうひとつ別の、ある空間を仮構して、その中に居て甘美さを享受しているのは空しい。今あるこの現実の、この空間を、いきなり喜びに満ち溢れた、甘美なものに読み替えてしまう事が必要なのだ。まあ、仮にそれが完璧に達成されてしまったらその人は既に狂人だろうが、そうではなく現実の世界を泳ぎながらも、その都度、目の前のものが喜び自体でなければ駄目だ。


だから人生とか、世界全体とか、そういうものに対して自分という存在を相対的に捉えるのも無駄な事だ。幸せとか不幸だとか、基本的に間違ったコンセプトで、たまに気分を変えるためのスパイスとして考えてみるならともかく、常に自らの現在幸福値を参照する事に躍起になってるようでは本末転倒だ。「人生」なんて幻想であって、今、この瞬間の、果てしない繰り返しがあるだけなのだ。朝、とても天気の良い一日の始まりに、会社へ行くために最寄り駅まで歩いているこの瞬間に、何か胸の中が喜びが生成してくるこの感じのまま、どこまでも行く事が大切だ。


家に帰って、部屋に描きかけの絵があって、その人物画を引き続き描く事で、本当に何かが達成されるのだろうか?中西夏之が、絵画を生成するに際して、足場としての水平面および、重力に抗う垂直面としての絵画を仮構する。と言うとき、それは、今あるこの現実の、この空間の中で、もうひとつ別の、ある空間を仮構するのとは、根本的に異なるのだと思う。それは今あるこの現実の、この空間の中で、唐突にも目の前の全てを、いきなり喜びに満ち溢れた、甘美なものに読み替えてしまうような所作に他ならない。…しかし、一体そんなことが可能なのか?その気になって過ごしていられる時間は、恐ろしく限られているのではなかろうか?あっという間に、現実の(幻想の)秩序に戻されてしまって、いつものパノラマが広がって、その中にいつもの僕が居るのではないだろうか?


どこまでいけるのか?それを考えていても仕方が無くて、そう思うのであれば、確かな感覚を取り戻すためにも、とにかく何か、映画でもCDでも良いから、良いものを摂取するようにした方が良いだろうか?


あるいは、…もしかして、あと数日したら、桜が開花するのではなかろうか?春が近くまで来ていて、むずがゆいような、ヌルイ空気が充満していく中で、あのすさまじいピンク色が、いきなり目の前にドカンと広がりのたうち爆発する日が近いのではないだろうか?


早く桜が咲くと良いのに!