かたちが狂っている


具象的な絵を描いているので、絶対、かたちが狂うのである。そうすると、ああ、かたちが狂っているなあと思い、不愉快さがこみ上げてくる。でもだからと言って、そのまま修正したりして解決かというと、これがそう単純ではなくて、そんな風にかたちが狂ったからそれを直すなんていうパターンは稀で、大抵の場合、これで良いのか?かたちが狂っているのではないか?というのが、うっすらとした微かな不安感のような予感として何日も何日も漂うような状態がほとんどなのである。で、それを直すのか直さないのか?というのが、絵の存在理由自体に影響してしまうのである。その結果、何か手を出してしまって結局、積み重ねたものをひどくぶっ壊してしまうような事になるのも珍しくない。壊してから、なぜそもそもこの絵が問題を含みながらも、多少良いところもあるように思えていたのか?の理由が、事後的にやっと、はっきりしてきて、それが全然、問題視して対処した箇所とは別のところにあったりした事に気付いたりもするのかもしれなくて、そういう時は、ああ勿体無い。僕がばかだった。。と少し思ったりもするものの、いずれにせよ、どうせ不満点を誤魔化しようがないような感じだったんだから、壊れて良かった。ダメなものが無くなった。さっぱりした。あーせいせいした。とか、そういう風にも思うのである。このあたりでちょっとヤケになったり投げやりになったりする悪い癖が、僕にはあって、子供の頃からあんまり忍耐強く積み重ねたりするのが苦手な子でした。。


アングルの絵で、観てる我々に背中と顔をこちらに向けて寝そべってるヤツがあるが、あの胴体が異様に長いのは有名な話である。あの長さは、僕は実を言うとすごい前から、結構勇気付けられるというか、なんか判断の素材として、すごいしょっちゅう、頭の中に浮かんでくるのである。要するに、正しいとか間違ってるとか、その基準自体を信じるなと。あそこで実現されてるあの感じであれば良いのだと。そんな風に、よく思う。どう良いのか?が判らないけど、とりあえず良いってことだ。…まあ、いい加減な話である。


あと、これも有名だがセザンヌが描いた少年の白いシャツに包まれた異様に長い腕とか。あれも、すごい微妙なんだけれど、でも良い!とおもう。良いと思うと思う!って感じだろうか。あのように描かなければならないのだ!というそういう気持ちの在り様というか、そのときの確信に満ちた確かな感覚を、もう一度呼び覚ます。(マティスになると、もう現世に何もこだわりとかなさそうだが、セザンヌだとまだ、目の前の人体に対するちょっとした屈託が残っていて、それに引っ張られつつも必死に抵抗している感じを想像してしまう。)