習得の論理


小学生のときはわりかしスポーツも良くやっていた。決して運動神経が発達してるタイプではないのだけど、いろいろやった。元々小児喘息だのアトピー性皮膚炎だのを抱えた病弱体質だったので、これではいかんと親がいろいろやらせた側面もあるのだろう。


あるスポーツにおいて、何かを習得すべく練習したりいろいろ努力をしたりするというのがあって、で、傍らには、コーチとかなんとかいう指導者的な人がいる。で、コーチは言うのである。「もっと力を抜け」だの「もっと気持ちを向こう側にもってけ」だの、意味の判らない事を。。でも、時間がたつとそういうのがいつか、出来るようになったりもするのである。で、出来るようになると、なんで今までこんな事ができなかったんだろう?とも思うとともに、おお!あのときのコーチの言ってた事は、確かに本当のことだった!などと思いもするのである。


でも、これは厳密に考えると、やはりおかしいのである。そういうのが出来るようになって成長した僕が、過去を振り返って「あの言葉は正しかった」と、いくら考えても、それはあんまり意味が無い。当然だ、出来ないというそのときに、特効薬のようにして役に立たないなら、アドバイスなんか意味が無いのである。(あとでわかる時が来るよ、とか平然という指導者も多いのである。それで給料がいただけるなら、俺だって指導者をやりたいのである)


というか、そういう指導者の事はどうでも良くて…何を言いたいのかというと、要するに、何かができるようになるというのは、思ったとおりの、想定通りの道筋で、そこまで到達するのではない。という事である。ダメな地点から、OKな地点までの道のりがくっきり見える訳ではないのである。どちらかと言うと、なぜか、いつのまにか出来てるというか、逆に、ふと気付くと、出来なかったときの感覚を思い出せなくなってるというか、そんな風に、いつのまにかOKな地点に居るというか、異なる次元を歩いているのに気付く訳で、それで、ああ良かったと思う訳でもなく、その地点で当然のように、別の異なる問題を抱えつつ、百年前からこのレベルで悩んでるんですよとでも言いたげな顔で、平然とすましてるのがほとんどであるという事なのだ。


なぜなのだろう?考えてみると不思議だ。出来ないときの感覚(世界)と出来るときの感覚(世界)が、一繋がりではないという事だ。出来るようになると、出来ないときの世界に、もはや戻れなくなってしまう。全てを一挙に捉える事ができて、いつでもどこにでも戻れるという事は、在りえないのだ。(大方のアドベンチャーゲームとかRPGの欠点のひとつはそこだ。かつて通り過ぎたダンジョンにこそ、困難はあるべきなのだ。)


(まあ、でも素晴らしいものを本当に「素晴らしい」と感じるとき、そう感じている人は大抵既に、それ以前に、その素晴らしさをおぼろげに掴んでいるものである。だから愉悦は常に、2度目以降であるとも言えるのである。で、無意識に過去の感覚を参照して、それにも気付かずああ素晴らしいとか思うのである。素晴らしさとは大抵、そういう風に感じられるものである。)


まあ、スポーツもそうだし、絵を描くこともそうかもしれないし、生きている今までの記憶も、そうなのだ。通り過ぎてしまった季節の感覚には戻れない。むしろ失い続けるのに近い。なにもかも亡くしていくようなものだ。


僕は、なんとなく30過ぎて「絵を描く」という事に、多少なりとも向き合いやすくなったように感じてるところがあるのだが、それってやはり、30過ぎたあたりで、あまりにも多くのものが亡くなっていってしまうからかもしれない。そうすると、絵を描くというのは、本当に自分にとってしっくり来る何かのようであったりもする。というか、もはや絵を描く事を邪魔するようなの諸要素がなくなって来るというか…いやもちろんこれは本人の内面だけの話で、単純な時間の融通なんか若いときとは比較にならない程、調整が難しいし、現在の日常においては過酷かつ荒涼とした労働の毎日をサヴァイブしていると言うのが現実なのだけど、でも若かりし頃の、自分で自分の感情をまったく制御できないような感覚とか(まあ僕は暴力衝動とかではなく内に篭りまくるタイプでしたが)そういうのは失われてスムーズになって、替わりに、すごいタチの悪い諦めの悪い、絵を描く自動機械だけが残ってるような感じだろうか。…そう。描くモチベーションは、若いときより格段に純度の高いものが必要なんだけど、描く行為自体は、相当機械的なシステマティックなものになっているというか、そうなって行きたいと志向してるトコロもあるかもしれない。


まあ、何事もはじめての時は良いものだ。生まれてはじめて音楽スタジオに行って、ギターとベースとドラムで合わせた時の経験も忘れられないのだけど、本当に超・動揺した。感動しまくって、膝ががくがく震えてしまって演奏続行が不可能になったりもしたものだ。ああいうのは、もう取り戻せないのだと思っている。