「内海聖史 展」《色彩に入る》 資生堂ギャラリー


巨大なもののイメージを一挙に捉えるのは難しい。ちょっと例えとしてどうかとは思うが、前に横須賀に行ったとき、記念艦「三笠」の周囲をぐるっと廻ってみても、とても全貌を捉えられたようには感じられず、かといって遠くに離れて全貌を見ても、それは単に遠景の、一望できるだけの景色に過ぎなくてやはり満足できず、目の前の有様を何度も体験して、その積み重ねを重ねるしかないという感じであるが、巨大さというのは、最初からそういう風に目の前にある。。…もっとも記念艦「三笠」の場合は、タラップを上り、入場料を払うと、その内部にまで入り込む事が可能だ。三笠に入る。…で、艦橋にも上る事ができたりする。それはものすごく危険な展望台みたいな高いところなのだが、そこに上ると、今度は「三笠」から見える海や町の全景色がパノラマとなって展開する。だから結局、「三笠」を体験して、「三笠」を把握しようとしたら、結果的にそこには世界があった!…みたいな話はどうでも良いのだが、まあ、巨大なものというのは、その位すごい面白いものだと言える。


というか「三笠」の話はどうでもいいのだ。第1回シセイドウ アートエッグ「内海聖史 展」出品作の「色彩に入る」という作品の話である。「色彩の下」という言葉もカッコいいが、「色彩に入る」というタイトルもすごいカッコいい。この絵はとにかく巨大なので、見上げたり、観ながら横に歩いたり、離れたり近づいたりするような感じである。絵に近づいて、巨大な塊の横っ腹あたりに自分が居るのを感じる感覚は気持ちが良い。


点描のように執拗な繰り返し作業で描かれている。ハンコを押しまくって、その集積をかたちにしていく感じである。そういうのがどわっと寄り集まった一個の大きなかたまりの物量感および巨大さで、一気に見せ圧倒させる感じである。青い色とかたちが渾然となって、胸がすくような感じを受ける。


画面に近づくと、単に反復で絵が出来てる訳ではなくて、相当、逡巡・葛藤を重ねた後の画面の厚みがかすかに見える。その、見えるさじ加減も意識的に為されていると思われるが、油絵が本来持っている豊かなコクのある表情を、予想以上に画面内にたくさん含んでいるので意外だった。


油絵の具というのは、そのまんま出しても単純にキレイなものだし、画面上で沢山操作してあげて、独自のまろやかなコクと旨みを出してあげても、このうえなく良い感じになるもので、そういうのの良い所だけを培養していこうとしている様に感じられた。それで、描くという行為もきっと、システマティックなプロセスの積み重ねと、賭博的な一瞬の判断力が要請されるプロセスの両方が複雑に絡み合うのだろうと思う。それらをどちらも殺さないような良い按配への調整が、制作時に目指されているのではなかろうか?とも想像した。(この展覧会は07/4/1に終了しました)