エンジニアリングとドライビング


操縦行為(In)と走行や停止や旋回など(Out)によって車両というシステムが成立している。


操縦行為は必ず人間によって為される。人間は車両内に入り込んで操縦する訳であるから、云わばシステムの内部に取り込まれているような格好になる。したがって入力元である操縦者は常にシステムが結果として出力する挙動の影響を受け続け、それに対する直接的反応として、次の入力方針を決定する事になる。この絶え間なく続く一連の制御を高度に執り行える者こそがF1パイロットと呼ばれ、その制御能力の優劣がアスリートとしての能力評価にも繋がっていくだろう。


しかし、高度な車の操縦だけがF1パイロットの役割ではない。今、自分が操縦している車両がどのようなフィーリングを自分の体に返してくるのかを、エンジニアに対して適切に伝達する事も、極めて重要とされる。元々エンジニアは、論理的に組み上げたロジックに基づきシステムを構築するが、そのシステムが人間にとって好ましい表層を有しているのかどうかについて、事前に知る事ができない。この情報を得るには、パイロットの体験談に縋るしか、手掛かりがない。もちろん各部位や要素が計上してくる数値データは参照されるものの、それらの総体が何を意味し、人間にとってどのような意味を持つのか?については、人間のインプレッションを参考とするより他なく、その意味付けが可能なのは人間だけである。いくらシステムとして秀逸だとしても、その表面が人間の肉体の許容度を越えるヘヴィネスを有しているのだとしたら、そのシステムは有効とは言えない。


優れたエンジニアリングとは何か?それは人間の諸感覚とその先にあるシステムとの繋ぎ目をなるべく滑らかにするような、そういうインターフェイスを実現する技術だと言えるだろう。優れたパイロットとは、自らの能力を用いて、まだ開発工程の途中段階における、人間とシステムとの間に大きく深く空いている谷間に赴き、穴や腐食だらけのボロボロの吊橋を誰よりも軽やかに渡る事を試み、その体験の感触を相手に教えてあげるようなものだ。エンジニアはリサーチ結果を元に、必要な箇所を修正対象に指定し、机上のロジックを厚みのあるものに変えていき、渡る行為をよりストレスの無いものへと変えていくだろう。


こうして洗練を重ねたシステムは、不特定多数の人間がほぼ問題なくアクセスできるような高度なインターフェイスを持つに至るだろう。眼も眩むほどの断崖絶壁が真下に広がっているとは誰も気付かないような、安定した吊橋。そこではもはやF1パイロットの高い身体的能力も必要とされない。誰からの入力であってもほぼ同じ結果を返してくれる柔軟性と安定性。それこそが洗練されたシステムなのだ。


誰が乗っても勝てる「最高の車」。それがエンジニアから見たF1マシンの理想ではないだろうか。あるいは全車が「最高の車」になってしまったら、やはり各パイロット達の身体能力が問われるだろうか?いや、全車が「最高の車」になってしまったら、パイロット固有の身体能力の誤差までをも柔軟に吸収するだろうから、おそらくスタートして、1コーナーで全車が全く同じ走行を試みて接触するからレースが成立しないか…いや、その前に予選で全車が同タイムになるので、やはりレースが成立しないと。


まあ。現実は、そんな事は在り得ないのだが。…その昔、1960年代のロータス車を作っていたのはコーリン・チャップマンで、ドライバーは、F1の歴史において最も優れたドライバーのひとりとも言われるジム・クラークであった。どちらも伝説の人物だが、…何かで読んだのだけれど、コーリンチャップマンの手によるロータスは確かに速かったのだそうだ。もう鬼のように速いマシンであった。しかし、それは途轍もなく危険なマシンでもあったそうだ。云わば、人間の諸感覚とシステム(車)との間に広がる谷間が、常識では考えられない程広かったのだと思われる。そして、それを埋めるための努力は最重要視されていなかったのかもしれない。むしろシステム本来の剥き身の野蛮性をスポイルしてしまう事態を恐れたのかもしれない。…そして、そのような危険な野獣のような車両を、たぐいまれな力で事も無げに操縦してしまい、結果的に驚くほどの回数にわたる勝利を手に入れたのが、ジム・クラークであったのかもしれない。云わば、途轍もなくリスクの高い賭けに勝ち続けたのだと言える。(しかし1968年ドイツのホッケインハイムサーキットにて事故死。享年32であるから、結局短い生涯ではあったが…)