「ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間」


ディレクターズ・カット ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間 [DVD]


とはいえ、やはり最初から僕は、何も信じていないといえば信じていなかった。何も信じられない人がとりあえず何かに賭けてみるとき、それは滑稽だ。だから大抵のチャレンジは滑稽であろう。


というか、おそらく子供が大人になるという時、その変化の内訳には色々あるだろうけど、その中のひとつで、情報を意識的に取捨しようと考え始める、というのがあると思う。中学生くらいになって深夜にラジオを聴き始めるとか、そういう孤独な時間をもつことから始まって、次第にこれが見たい。聴きたい。これはいらない。これは時間の無駄。とかそれなりに自己判別を始めるようになるもんだと思う。…でもそういう自己判別を経て、情報を拾い始めた瞬間、もうすべてが過去のものだという事に気付く。


知りたいと思ったとき、それは必ず過去のモノである。って、それ当たり前の事でしょ?っていう話だが、これは現実に気付くと結構ショックでかい。俺はもはや隠者では?って思う。あるいはもう、化石発掘の人とか考古学の人と一緒だ!って思う。過去を掘り起こす事でしか喜びがないというのはショック結構、でかい。まあその後すぐ「僕は周りと違う」選民意識でやっていく事になるのだろう。でもそれで良いのだ。それこそが正しい。若いときなんて多かれ少なかれそうだ。色々と人が知らない何かを漁りつつ、やや自意識過剰気味の浮かぶような高揚感を感じたことの無いの若者なんて居ないだろう。


でも、いずれにせよ、全部、それらは嘘なのだ。情報は実際、それらは過去でも現在でも未来でもないのだ。それらは良く判らないけど唐突にあらわれる何かではある。過去を掘り起こす事を多くする人は、自分の出自とかそういうものから浮き上がったような、そのような唐突な体験ばかり繰り返しているとも言える。実際、何も信じられない人がとりあえず何かに賭けてみるとき、それは滑稽だ。だから大抵のチャレンジは滑稽であろう。


例えばウッドストックというロックフェスティバルが、1969年にあった。僕は10代の頃、やや教条的なほどの勢いでロックを聴き続けてたんで、このフェスティバルの模様を撮影した映画とかサントラとかを、只ならぬ思い入れを持ちつつ体験した。


ウッドストックが熱狂と興奮の坩堝として開催されて、あれで世界が変わると一瞬でも信じられた瞬間があったのかもしれない、という事や、有象無象の問題点や欺瞞や何かも当然抱えており奇麗事だけでは済まないのであろう事、かつ、そういう賛否とか諸々のそれら全体を後から振り返って、結局要するにあのフェスってこうだったよね。ロックってこうだったよね。60年代ってこうだったよね。と総括する言説が、既に死ぬほどたくさんあって出尽くした事。…そういう全てを含んだおおきなカタマリとして、それを一挙に初めて体験したのだ。


90年代を目前にした高校生の僕が、ウッドストックの記録物を真剣に漁り体験しているという事の、何とも救い難い滑稽さ、唐突さ、意味の無さ。それを本人、全く気にしていない訳じゃなかったのだけれど、…なので「実際ロックなんてロっクなもんじゃないね!」とか云いつつ、何も信じていないといえば信じていなかったにも関わらず、それでも残りの食べ残しを漁るというか、もう最初からそういう気分は、確かにあったのだと思う。最初から死体弄りかよ!みたいな話しだが。


しかし、そんな気分での僕の目に映る映画ウッドストックは、全編、しみじみ美しく切ない思いに囚われるものであった。その感触は、今も僕の中で変わっていない。


そして更に付け加えるとすれば、ここでの演奏ひとつひとつに関しては40年が経過した今もなお、まだまだ素晴らしい鮮度を保っていると云う事である。ジミヘンのアメリカ国家からイマジネイティヴに展開するメドレーは単体で素晴らしい質を持った演奏だし、スライストーンのパフォーマンスだってそうだ。夜のステージに立つクロスビー・スティルズ&ナッシュの「組曲:青い目のジュディ」の、夜のとばりに深く浸透していくような艶やかな美しさはどうだろう!あるいはサマータイムブルースを演奏するWhoのピート・タウンゼントの野獣のようなステージアクションを、その後何十年か後に一度でもほんの一歩でも越える事が出来たヤツがこの世界に存在するのか?あれほどカッコよくギターを弾いて最後にこともなげに叩き壊す事が、他の誰に可能なのか??とか、そういう考えが、何の関連性も持たずに、後から後から沸いてきては消えていく。


…象徴的なものは最初から死んでいた、あるいは死なない。という感じだろうか。