リアルに生きるという事


若いときには全く気付けなかったのだけど、現実というのは、想像よりも全然複雑なものだったのだ。複雑とは何か?というと、来るべき何かに対して僕が最初に頭の中で、嬉しいと思うだろうなあとか、悲しいと思うだろうなあとか、嫌だろうなあとか、怖いだろうなあとか、そういう風にあらかじめ想像して考えていたことなど、いざその局面に来ると、まるで見当外れの空想に過ぎず、目の前の光景は、全然別の様相を呈しており、その中の僕も、当初の想像とはまるで違う状態のまま、別に良くも悪くもなく、その時点で動いているだけで、…そういう自分と外の世界との、想像を絶する程の噛みあわなさ・食い違い感…というか、そう簡単にイメージしてそれに対してタカを括れるほど一枚岩ではない。という事だと思う。それが複雑っていう事であり、リアルという事だ。


そういう状態だと、こうなら良いのにな/こうな嫌だな、という当初の想定基準自体がまるで意味のないものになってしまう。良い筈の場所で、ああ良かったとは思わないし、悪い筈の場所で、ああ最悪だ人生終わったとも思わない。それより、その状況で更に細かく複雑な有象無象との接触が待っていて、その関わりの中を新たに生きるだけである。


そうすると、経験を積むことのメリットというのは何か?それは以前より様々な事象に上手く対処できるようになる。という事でもあろうが、どちらかというと、様々な事象が総体となったときの、もう手の付けられないような複雑な無茶苦茶さ・訳のわからなさ・腑に落ちなさ・中途半端さ…などに動じないようになり、それをそれ自体として受け入れ、飲み込み、変わらぬ歩調で進み得る力を得られる。という事であると思われる。というか、そうなりたい。それを目指したい。という話だけれども。


原爆投下直後のヒロシマで治療に従事した医師が、地獄絵図の現実に立ち向かうために心した事とは「希望をもたないこと、しかし絶望しないこと」であったという。戦争が遥か彼方の昔になってしまった今の現実においても多分、こういう意識からスタートするしかない筈だと思うので、日本国憲法はとりあえず現状では、改正すべきではないと思う。