美術作品を購入するという事


それは私が作品を観て、その作品について考えて、その結果、金を払うに値すると思うから、買うのだ。しかし、それは必ずしも、その作品がとても魅力的だから、家の壁に飾りたいから。とかそういう理由だけとは限らない。もちろんその作品がまるで面白くなければ、金など出さないに決まっているが、しかし購入者は、その作品の良さの向こう側に何か通常は見えないものを見て、それに対して金を支払うのだと思う。


殊に現代美術を購入するとい場合、この要素は大きい。この作品に出会えて良かった、こういう作品を作るあなたのような人と同時代に生きている事が嬉しい、それが私にとっては喜びだ…こういう気持ちが、美術作品を購入する際の大きなモティベーションであろうと思う。


美術作品を買うとは、その作品や作家を信頼できるという事であり、その気持ちの表明であり、私はこの作品や作家を自分に可能な範囲で積極的に擁護します。その意志があります。と世界へ宣言する事でもある。だから購入に支払われた金はそのままどこに流れようとも、美術/社会においては、あくまでもそのような意志を証明するための保証金なのだ。云わば、美術を有価証券のように扱うのとはまるで逆で、この私が持ち金を使って任意の作品を価値付けするのだ。


でもまあ、それがもっとお金持ちの世界になっていくと、そういう人にとっての美術品収集を継続させるモティベーションというのは、また別の意味があったりもするのだろう。というか、所謂お金持ちの美術品コレクターというのは、どういう生態の人なのか僕はよく知らないのだが、やはりそれは同時代に生きるリアルな感覚から、図らずも離脱してしまっているのだろうし、そんな価値付け人生ゲームになんか参加しないだろう。…というかそういう解脱した人だと、日本の現代美術にはまあコミットしたくもないだろうし手を出さないだろう。


…しかしたとえば僕なんかは、いきなり明日からどんなに訳のわからない事をして、例えば狂人のふりをしたとしても、まあ大体お里が知れると言うか、タカが知れてる訳なのだ。それが僕という存在の限界なのだろうけれど、逆に、もうどんなに何をしても何を買って放蕩して消尽しても、生臭い感じが漂わない、物体のような死体のような人間というのが、この世には存在するのかもしれない。そういう人々の傍らに在る美術作品というのも、また、これは想像でしかないけれどまあ、あるのだろうけど…。