韻文と散文


7/8に書いた保坂和志の芸大講義の音声ファイルで一時間を過ぎたあたりで話されてる内容…「花であることでしか拮抗できない外部というものがなければならない」という言葉は美しい。何かクるものがある。でも「韻文」だと、こう言えちゃうけど「散文」だと、これ言えないんです。こういう言葉って美しいから書きたくなるんだけど、いきなり言ってしまって構わないんだけど、散文ではそれをやったらだめで、…散文って、もっとカタチとしては、もたもたしているものなんだ。…散文とは、「これは良いけどカッコいいだけじゃないの?本当ではないんじゃないの?というところまでをも含みこむものなんだ。目指してるのはそこだけれど、キレイに出来すぎてると思う気持ち…本当にそういう事を云いたいんだけど、それをキレイな言葉としていきなり投げ出しても駄目で、そのための準備とか助走とか、了解とか、そういうものが必要なんだ。そうじゃないとちゃんと伝わらないんだと…


…などというような感じの話の流れを聞きつつ思ったのだが、この、「準備とか助走」をどのようにやるか?が重要なのだろう。ここにほんの少しでも、観念とかの匂いが混じると、それは一挙に、また別の「うそ臭さ」がたちこめてしまうだろうから。


また、それ自体に対する疑いを「含みこんでいる」という表現がとても面白いと思った。これは様々な外部に依存せず、なるべく単独で生成可能な構造を持たないといけない、という事でもあるだろう。


多分、上手く外部に依存しつつ、細かくパーツに分けてアウトソーシングしつつ、各関係性だけで成り立っているようなモノも、きっと面白いのだとは思う。例えば映画というものは、そういう部分が強い。独りの力で、映画はできない。しかし、そういう制作方法の話ではなくて、何か生成のされ方として、単独でなければいけない、という事が云われているのだろう。その一瞬においては、絶対に単独でなければいけないのだと。


僕なんかはもともと「韻文」の魅力にひきつけられるところがとても強い。そういう「枠」があらかじめあって、その境界線上でのアクロバットを「芸」だと思っているフシがある。散文詩とか小説とか映画とかは、まあはっきり云うと体験するのに忍耐力が要るし面倒臭い。でも「韻文」的なものはその辺が、まだ比較的楽なのだ。


まあでも、目指してるのはそこで、それをこういう韻文で表わす。って事それ自体を脱臼させられないものかとも思うのだが…というか、それをも「含みこむ」ような目指し方?でもまあ、そういう事は言葉で書いてもしょうがない。ていうか言葉で書くのは簡単だ。でも実施するのは大変だ。というか実施すると、大体そういう事じゃない方に行くんだよね(笑)