「賭博者」ドストエフスキー


賭博者 (新潮文庫)


賭博の良いところは、とりあえず5秒後に勝っていれば、それですべてがOKになる事である。今までの経緯とか現在の状態とか周囲の期待とかそういうのが、まるで関係なく、とりあえず勝利を呼び込めるか否か、にすべてが掛かっているのが良い。


賭け事は、毎日勝ち続けて、少しずつ貯蓄が増えていって、最終的にクルマを買ったとかマンションを買ったとか、そういうのが理想的で最高だと思っている人も居るのだろうが、それは賭け事ではなくて単に働いてるだけである。それはカネに目が眩んでるだけである。賭け事に目が眩んでる人間というのは、決してカネに目が眩んでる訳ではないのである。カネなんてゴミ以下のもので、別に川原の小石を包んでおいたって良いのだし、ウンコの後でケツを拭いたりしても良いのである。賭け事というのは、カネをそういう本来の役割に戻してあげるためのささやかな試みなのである。


賭け事はおそらく、人間が一生を費やすに値する何事かであるのかもしれない。賭け事の素晴らしいところは、絶対に何も積み上がらない事だろう。経験とか実績とか貫禄とか人脈とか愛嬌とか、そういうのが確実に役に立たない事が保証済みである事の、尋常ではない安心感と安らぎ。本質的な意味での平等社会に暮らすという事。この私と明日の私との接続安定性に、全く何の保証もないという事。今の平穏が、砂上にしかない事を常に意識するという事。…そしてそれが恐らく、死ぬまで続くという事。賭け事は死ぬ事でしか終わる事ができない。。


ドストエフスキーの「賭博者」の第14章で、天啓を受けたかのように突如として賭博場で勝負を始める主人公がたちまち大勝する下りを読んでいてあまりの迫力に呆然とした。(気まぐれに引っぱり出してきて適当なトコから読み返してたらやっぱすごい面白いかった!っていうだけの話だが)

黒が出た。ここからはもう、私は計算も、賭けの順序もおぼえていない。夢の中のようにおぼえているのは、ただ、わたしがどうやらもう一万六千フローリンばかり勝ったらしい、ということだけだ。突然、三度の不運な目で、そのうちの一万二千フローリンを失った。そこで、最後の四千を「後半(パス)」に賭けた。(しかし、その際ほとんど何の感覚も無かった。わたしはただ、何の考えもなく、なにか機械的に待っていたにすぎない)。そして、また勝った。そのあと、さらに四回たてつづけに勝った。何千という金をかき集めたことだけはおぼえている。さらにまた、わたしが妙にひきつけられた真ん中の十二がいちばんひんぱんに出たことも、おぼえている。それはなにか規則的に出た--必ず三、四回つづけて出て、そのあと二度姿を消し、それからまた三、四度連続して戻ってくるのだった。このふしぎな規則性が時には順ぐりに現われるので、まさにそれが、鉛筆を手にして計算する名うての賭博者をまごつかせるのである。それにしても、ここでは時として、なんという恐ろしい運命の嘲笑に出くわすことだろう!


このときの主人公はほとんど完全にぶっ飛んでいる。というか読んでる我々がぶっ飛んでいるのだ。。この章を読んで血液がぐつぐつと沸騰する者は幸いなるかな。天国は彼らのものである。

三十一(トラント・エ・タン)、赤(ルージュ)、奇数(アンペール)、後半(パス)だとか、四(カートル)、黒(ノワール)、偶数(ペール)、前半(マンク)だとかいうディーラーの叫びを、どれほど胸をときめかせ、胸のしびれる思いできくことか!ルイ・ドル、フリードリヒ・ドル、ターレルなどの貨幣のちらばっている賭博台や、円盤のまわりに並ぶ七十センチほどもある長い銀貨の柱などを、どれほど貪婪にわたしが見つめることか。賭博場に近づきながら、二部屋向こうでかきまぜられている金の音を耳にするや否や、わたしはほとんど痙攣を起こしそうになるのである。