金刀比羅宮 書院の美― 応挙・若冲・岸岱 ―


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表題の展覧会を東京藝術大学大学美術館にて。伊藤若冲「花丸図」は縦30cm、横40cmの矩形内に様々な草花が描かれており、それが合計201枚、襖から床の間から壁からびっしりと整然と規則正しく並んでいる。若冲を観ていて思うのは、この画家は「神は細部に宿る」とか、仮にそういう言葉を聞いてもまったく興味を示さず鼻で笑いそう、という事だ。そもそも細部以前に、全体とか部分とか全てをひっくるめた総体とか、そういう事にも無頓着であるように思われる。ただ、神経症的にこだわり抜いて極めまくった、ある形態なり線なりが、そこにあるのだが、しかし、それはそれで、目の前にそう在るだけのモノで、そこにまさか「何かが宿る」などとは、まったく想像だにしてないように感じる。


会場を出て、家に帰ってきてから「糸瓜群虫図」とか「燕子花小禽図」とかの図版を改めて見ていると、やはり思わず息を呑む程のすごいテンションを感じてびっくりするが、しかし、これは一体絵だろうか?とも思う。「糸瓜群虫図」に関しては、もう幾らなんでもあんまりな形態であると云えなくもない。描いた曲線がその直前の線にモロに影響されつつ自然の摂理であるかのように更に奥へ奥へと回り込み、内側の領域に平然とねじ込まれていくような、ツタとか原生林に生息する植物の異様にデジタルな繁殖の有様が純粋抽出されているかのような、雪の結晶とかフラクタル図形のような事なのだが、それがまっとうに、そういうひとつの単なる計算式として描かれているように思われる。それがあまりにもそのままで、すごい図式的である。で、それが若冲にとっては、そういうのも別に何の事もない即物的な可能性(こう描けば、当然こうなる、という程度の)の提示としか思ってないのでは?と感じられるような薄気味悪さがある。


今回観た「花丸図」だって、これは要するに、縦30cm、横40cmの矩形の中に、程よい大きさ(程よい余白の残し方で…この間隔の感覚が天才的なのだけど)ひとつひとつ花を描いていって、それを201個描いたという事なのだと思われる。…まことに簡単な話だが、(これを201個描いて並べればそれで出来てしまう)という、そういうタカの括り方の大胆さというのは…。ある意味神をも恐れぬ傲慢さというか、フザけた態度というのに、唖然とするところもある。しかし(これを201個描いて並べればそれで出来てしまう)と想定されたとき、果たしてそれは、絵なのだろうか?とも思ってしまう。…ってか、まあそりゃ確かに絵でしょうけど。


この展示会場で最初に出くわす丸山応挙「稚松双鶴図」の四方囲まれたこの上なく美しい空間の真ん中でうっとりする。(…この展覧会では、障壁画を実際の家屋空間と同じように並べて、まさに四方から取り囲まれるような鑑賞体験を実現している…)形態が下に溜まり、上へと導かれ、また下へと下がる。その流れと余韻…とはいえ、これもなんというか、形態の遊びの面白さに淫しているだけではないかと、云えれば云えなくもないのだろう。じゃあ何が良いのか?何が良いのやら…。


会場最後の方にあった邨田丹陵「富士山図」は明治35年の新しめなモノであるが、まあ雰囲気重視の、イマイチなものではあるのだが、でも如何にも迫りくる「日本近代」の感じがして、ある意味ちょっと良かった。大正〜昭和初期の異様な薄っぺらくて寒い感じが既に萌芽しているように思える。