収容所について


福田和也の本を読み進める。ヒトラースターリンの箇所を読む。なんかぼやーっとしててイマイチ頭に入っていかないような感じ。ひどく無駄に時間が流れていくようなイマイチな週末だが、まあでも、こんなもんか。制作はぬるーっとした感じで進んでいる。良い感じではないが、しばらくこのあたりでウダウダするのだろうと予感している。良いも悪いもない。只やる。


収容所というのは、何よりも恐怖と不安を生成するためのシステムで、それがこの世界に実在するという事実こそが、人間をもっとも強烈に拘束する。そして「自分」という存在に対して、もうひとりの自分が常に状態を確認しているかのような、そういう相対的な比較視点を植えつけさせて、常に計測するような感覚の装置が作動するようになる。


こうなると人間は自分の諸感覚とか、幸せや不幸せとか、自分が今、ここにいる意味やら存在の確かさなんかも、巨大なシステムに対する何がしかの後ろめたさとか余剰のようなものに感じるのだと思う。そしてそれは、多かれ少なかれ干渉されて必ず幾分かは差し引かれ間引かれる何かとして意識される。自分の生というものとか、喜びや芳醇さというものを、移ろいやすい、粗末な財布の中のなけなしの小銭のようなものとしてしか感じられなくなる。でも、それ無しでは幸せや不幸せとか、そういうの自体が意識できないくらいになっている。


…というか、もはや幸せや不幸せとか、そういうのに価値を置くことの見返りの無さの方が強く感じられるようになってしまう。そんなの考えても意味がないし、無ければ無いでそこそこ気楽にやれるのだ。システム管理下では私もなるべくシンプルで齟齬や摩擦のない状態でいた方が良いのだ。突出した幸福も不幸も余計なのだ。


そうすると、なんだかんだ云っても俺はまだマシなほうだとか、ああはなりたくないとか、アイツは悲惨だ、ああならなくて良かったとか、そういう事だけを考えながら生を送る事になる。そういう視点だけが役に立つ。そういう偏差がすなわちモチベーションになり得る。


だから収容所は、現在も今でも、どこにでもあるし、ちゃんと機能してるのだ。で、そういうシステムというのは構築するのも解体するのも一筋縄ではいかない。別に誰かが意図的に作ったものではないし、どこにも担当者も責任者もいないし。極悪人とか悪の枢軸とかいうのは、物語の中にしかいない。あるいは誰かに指し示された上でのイメージでしかない。たまねぎの皮を剥いても剥いても、何もない。世界のどこを探しても自分自身とそっくりなヤツしか居ない。そして、本当は皆が自分と同じ恐怖や不安を抱えており、お互いに見つめ合うだけだ。