空想の対話(「太陽」)


太陽 [DVD]


1945年9月、宮内省はGHQに天皇マッカーサー訪問について打診した。極東軍事裁判に出頭するべくA級戦犯の身柄拘束が始まりつつある時期に、この面会は実現した。


マッカーサーの指示で、会談の前にまずマッカーサー天皇両者が並んで直立している状態での写真をカメラマンを呼んで撮影させたその写真は大変有名なものだ。後日新聞掲載されたこの写真で、日本国民ははじめて皇国の天皇が他国の指揮官と同じ地面に立ち並んで、あまりにも歴然とした身長差を露呈させられている衝撃的なイメージを目の当たりにする。ビジュアル・イメージの演出力に圧倒的なセンスを示すマッカーサーの面目躍如と云ったところだったろう。


第一回目の会談終了時、天皇は極度の疲労に見舞われていたと云われる。それはその時その場で、もっとも適切でもっとも相応しくもっともシンプルで直接的に意味を伝達できる言葉を、ひたすら選び抜いて対話していた事による強い緊張から来る疲労であったのだろうと思われる。…しかし会談が回を重ねるにつれて、次第に両者の親睦は深まっていったそうである。マッカーサーが離日する昭和26年までの間に会談は合計11回にも及んだのだが、それらはいずれも非常に親密な打ち解けた雰囲気で執り行われたそうだ。しかし一体何が語られたのか、その内容は今に至るまで詳細不明とされている。お互いが会談内容を決して漏らさないと約束したのだそうである。天皇はこの契約を頑なに守った。(一説には、その場で天皇は自らの戦争責任について言及したとも推測されている。天皇は自らをアメリカに委ねる事により戦争責任の決着を付ける事を望んでいたとも云われている。)


イッセー尾形が主演した映画「太陽」では、マッカーサー天皇との対話シーンに多くの時間が割かれている。ここでの対話は、ある種の警戒と、たどたどしさと、融和や親密さとが、溶け合って不思議な甘美さを醸し出すような時間として演出されていたように記憶する。あの映画の中の奇妙な甘美さは何であったのかと考える。もちろんそれは現実と無関係に、映画が映画として感じさせる何かであるに過ぎない。そして、その「何か」自体には、意味もなければ意見の与えられる余地もないだろう。それはもはや、駆け引きや戦略が有効な地平を遥か彼方まで遠ざかってしまった場所で行われる、どのような立場とも云えぬ一人と、圧倒的な権力を握った一人の、目的も不明なまま試された対話であろう。


しかし現実、この二人の対話に拠って醸成された何かが、占領政策やその後において、戦後の日本の出発に少なからぬ影響を与え、あれから60年以上たったこの場所に居る我々にとっても、決して無関係ではないような何かであったのは間違いないだろう。それは実際どんなものだったのか、空想するしかないのだが…。しかしそれは、誰の為とか、誰のおかげとか、「私」に纏わるような事ではない、只のふたりの人物の会話なのであり、そこに醸し出されたある色合いのような、気分のようなものであったのだろう。(参考「新版 敗戦前後の日本人」)