「風の中の牝鶏」


風の中の牝鶏 [DVD] COS-020


とにかく、生きるためにはなんでもしなければならない、という状況下があった。というか、今もある。生きるのは楽じゃない。それは思った以上に大変な事であった。生きるためには相当色々と努力も配慮もしなければならない。それなりに稼がなければならない。ぼやっとしてたら駄目だ。辺りを伺い人の顔色を伺い最善のパフォーマンスを常に提示する事でしか打開できないのだ。だからとにかく石にかじりついても頑張る、という事だ。。


みるからに貧しげな民家が立ち並び、その一軒の二階を借りて寝起きしている母親と子供がいる。一階には家主とその家族が住んでいる。一階と二階は階段でつながっている。母親は「ミシンの下請」で細々と生計を立てているが、ある日突然大腸カタルを発症したまだ幼少の息子を両手で横抱きに抱きかかえて病院に駆け込む。どうにか一命を取り留めて眠る息子の傍らで母親はひたすらゆっくりと穏やかに話しかける。「お母さんはばかだねえ、お母さんはばかだねえ、ヒロちゃんは絶対によくならなきゃ駄目よ。もしヒロちゃんがいなくなってしまったら、お母さんももう生きていけないのよ。」眠る息子に、何度も何度も語りかける。


数日たって、やがて快復した息子に同じ調子で母親は語りかける。「直ってからよかったわねえ、もしヒロちゃんが直らなかったら、おかあさんも一緒に死んじゃおうかと思ってたのよ、とか、…ねえヒロちゃん。…ここのお支払いどうしようねえ、おかあさんもうお金ないのよ。ねえ、ヒロちゃん。お母さんはばかだねえ。お母さんは馬鹿だねえ。」


しかしとにもかくにも、一難は去ったのでそれがもうこみ上げてくるほどに嬉しく、あとは夫が帰って来さえすれば、それで良いのだと、それだけを望んでいる状態で、その事さえ思い浮かべれば、大抵の辛い事にも耐えられてしまうだろうと思われるほどだ。


で、佐野周二がついに帰ってくる。大家が玄関で田中に「ご主人が帰ってるよ、早くお会いになりなさい」と教えてくれる。さっと喜色を浮かべる田中。しかし同時に得体の知れない緊張も感じながら、さあパパが帰ってきたよ早く行こう、と子供をおんぶして二階に駆け上がる。


二階には、佐野周二が安らかな顔で眠っている。その顔を見つめる母と子。田中は笑っているだけでなかなか亭主を起こそうとしない。亭主は寝続けている。母親は息子に父の名前を呼ばせる。お父さんって呼んでごらんなさい。と言って。息子の声に父親がやっと目覚めて、そして笑う。。(←ここ幸福の頂点!)


…僕なんかははじめて小津映画をみたときに、まず感じたのはものすごい懐かしさであった。僕にとってあれらは、すべて戦後の民衆の生活それ自体として感じられるもので、特に映画として異様だとも作為的だとも思わなかったし、映画としてタグイマレなすばらしいものであるというのを理屈としては知っていたが、それを確認するために観る意識は薄く、むしろ50年以上前の日本家屋の様子やその座敷に正座で座っている人々が映っている事の方がよっぽど興味深い事に思えて、それを目当てに次々と作品を観たのであった。


本作ははじめて観た。今まで観た小津の中でもっとも戦争の香りがする。というのは公開年とかを意識し過ぎているのかもしれないが、自分や周囲を襲った激しい振動に翻弄され、かろうじてどうにか元の場所まで戻ってきた事の実感を確かめつつ、本来の自分のフォームを取り戻そうとする復員したての映画監督を想像する。