「水で書かれた物語」


水で書かれた物語 デラックス版 [DVD]


DVDにて。正直なところまあ、特に面白くもつまらなくもないという感じでしか感じられなかったのだが、しかしこの時期(1965年)に、ある人が、ある状況下で、このような作品を作らなければならなかったのだ、という確固とした理由があるのだろうと想像する(いや全ての映画や絵画や小説や音楽がそうだろう)。それはもちろん、観る者がちゃんと汲み取ってあげるように感じたり考えたりしなければいけないものではなくて、いうまでも無く観る者はもう好き勝手に観れば良いのが大前提なのだが、しかしだからと云ってDVDかなんかでさくっと観て「つまんない。終了」と云って終わりだったら、過去にあるほとんどのモノがつまらないものとなってしまう。「観る」というのは大げさにいえば、もう既にそういう「観る」という態度事態が不遜なのであって、人様の作ったものを何も考えずに「観る」っつったって、そんなもんすぐに流動食みたいに「喰いました。ウマカッタです」などと思える訳が無いのであって、そういうところで不可解さを胸のうちに湛えながらも一応ちゃんと礼儀正しくしている事こそ、今の美術大学なんかはちゃんと教えないといけないのである。ってそれはウソです。というか話がずれたが、たとえ観てイマイチだと思ったからといって「つまらないよこれ」と、平然と云うのは慎みと礼節を欠いた行為であろう。


しかしつまらないものを「いや面白いかも」とか云って誤魔化してるのはもっと良くない。つまらないと思ったら、自分の責任においてつまらないと云わなければならない。僕にはこれをつまらないとしか感じられませんでした、という正直な告白を避けてはいけない。そういう勇気はいるし、なるべくそうならないよう普段から一定の緊張感を常にもっていなければならないのだ。大げさに云えば。


でも本作に関しては、繰り返すがどうもやはり面白いと思えるところを見つけられなかったのであるが、しかしそういう事をブログと称して書いている僕のこの文章がもっとも下等で醜い振舞の所作である事は重々承知であるが、それを恥じつつ、でもやっぱり同じ調子で書き進めるのだが、岡田茉莉子の厚化粧した顔をああいう撮影で撮れば、あの時代のああいう雰囲気になるのだ、という事だけはよくわかった。アイシャドウ周りのあのメイクの感じとかもカッコいい。ひたすら女の方が上にのしかかってきて濃厚にキスしたりカラダに触らせたりという受身な一瞬だけが何度も繰り返されて、単なるエロ映画なのかなぁとか思ったりもして、最後は看護婦さんがわらわらと出てきてああー・・とか何とか、あの辺もまあ…という感じ。でもとりあえずお勉強として鑑賞いたしました。また日がたてば違った感想もあるかもしれない。まあ後日「エロス+虐殺」も観てみましょう。


実際、映画とかって一本観て、きっちり一塊の感想をまとめる、というやり方がふさわしくない。まあでも映画はとりあえず2時間とか経てば終わるからなあ。それが、何かしらの感想を心に宿せる唯一の理由かもしれない。。しかし本来はそんな一本のまとまったモノではなくて、どうしても記憶のそれぞれの箇所にてんでばらばらに保存された細かな細部とか些細で微かな箇所の断片とかが、あとで何か意味を含んだ問題となって戻ってくるような感じなので、そういうのを思いつくたびに書くとか、そこからまた別の問題が生成してくるとか、そういうのの方が感覚の再現には近いのだろう。前にも書いたけどひとつのジャンル内で「マイリバイバル」してくると、そういう自分の中の行き来が活発になるのだ。なので行きつ戻りつしながら考えた方が良い。