「F1グランプリ 栄光の男たち」(システムとドライビング Part1)


F1グランプリ 栄光の男たち [DVD]


Windowsから古いシステムにエミュレータを使ってログインしたりすると「21世紀の真ん中に前世紀の真っ黒い落とし穴が開いた」ような錯覚をおぼえる。というと大げさだがまあそんな感じもなくはない。とはいえ技術は昔の技術を受けて改良され、それに上塗りされていくのであるから、落とし穴の向こうに古いシステムの表層が見えたとしても特に驚くべきことではない。…コマンドで実行命令出すのは簡単でかつ強力だ。しかし異なるタスクが交差しつつ動作している環境下においては予期せぬ事態を引き起こす事にもなりかねない。親切な事前警告なんか出ないでいきなり処理強行してしまうからだ。それを単純に実行できたのは、古きよき牧歌的な時代の話だ。今同じ事をやったらエライ事になっちゃうよ、などと云われたりもする。


帰ってきてDVD。1976年公開のドキュメンタリー映画である。F1グランプリ1973年の様子がじっくりと観れて嬉しい。F1とかモータースポーツとかが好きな人なら観てて普通に楽しいだろう。…しかしこの時代の車のなんと質素で個性的で粗野で野蛮な事だろう!ゴーカートをそのまま1000倍の馬力に強化してオモチャのウィングを前後に付けただけみたいな、もう魅力的極まりないクルマたちが、激しくドリフトしながら各コーナーをクリアしていく。限定されたいくつかのコースを数時間〜数十時間の間だけ走行できれば良いというだけの究極の割り切りで作られた走行機械。


大昔の格闘競技なんかは、どちらかが死ぬまで戦うとか猛獣と一騎打ちさせるとか、そういう云わば残酷な有様を高みの見物する見世物の要素も色濃かったのだろうが、20世紀以降その役目を請け負ったのがモータースポーツなのかもしれない。殊にハイテクや超多国籍資本企業が介入してくる前、80年代の手前くらいまではそういうテイストが色濃い。猛獣と闘うかわりに、猛獣並みの力を有する非人間的なシステム内に自分を滑り込ませて、無理やり「自分」を「拡張」してしまう。最終的に自分に掛かってくる負荷やリスクはとりあえずお構いなしで、そういう身体拡張を実施して競い、皆がそれを観るというシロモノだ。


F1と呼ばれるカテゴリーの自動車レースは現時点で既に50年以上の歴史を持つが、ガソリンエンジンを搭載した自動車の発明・誕生は百数十年前にさかのぼる。この内燃機関を備えた機械に乗り込んで競争するというのを誰が最初に思いついたのかは知らないが、その思いつきがかなり20世紀的であった事は確かだろう。近代スポーツの概念成立以降、スポーツの価値は成績という誰でも等しく理解できるものにはなった。しかし人間にとってスポーツとは何か?スポーツというものをどのように捉えるか?には依然としてさまざまな考え方が在り得るし、殊にモータースポーツに対する定義は難しいだろう。なぜなら他のスポーツと違ってモータースポーツはテクノロジーと産業抜きには成り立たないようなものだからだ。「20世紀的」であるというのはこの事を指す。


テクノロジーとはひとつのファンクションである。人間が目的のためにある仕掛けを定義した結果として存在する。テクノロジーから出力される結果については疑う必要がないという事を、社会が一応約束してくれているから効率化が図れる。そのようなシステム配下では入力と結果だけが次々とリンクされ続け、起源も終局も不問にされたままのダイナミズムだけが彷徨していて、ファンクション内で生起している筈のあらゆる「過程」は極度に圧縮され様相を垣間見ることが難しい。あるいは、今まで見た事もないような恐ろしく鮮やかな一瞬の光景としてはじめて人類の目前に現れる「テクノなイメージ」にもなるだろう。(連続写真のような?)モータースポーツは当初、そのあたりの「人間同士のお約束」をもっともヤバイ区域に平然と晒すような不思議な悪意を持ったイベントであったのかもしれない。この悪意はある意味、とてもヨーロッパ的な悪意と云えるかもしれない。悪意というよりは退屈とか退廃の産物と云った方が良いかもしれない?…いずれにせよF1とは、大量殺戮と総力戦を経由したヨーロッパ諸国の、新たなリアリティを含む近代スポーツの鬼子として50年余り前に生れ落ちたのかもしれない。(Part2に続く…)